Nichidoku Liederkreis | 日独リーダークライス 17
第17国際夏期講習会は | 講師陣 | 書庫

ハルトムート・フラート/清水肇訳
フランツ・シューベルトまでのドイツ歌曲


ウィーンに住むある全く無名の助教師兼作曲家が、1816年、この年この人は19歳でしたが、自分が崇拝する人物の詩に自ら付けた曲を集め、そのヨーロッパ一有名な詩人にして科学者、哲学者、そして政治家でもあった人物に、思い切って送り付けました。彼は、その偉大な人物の援助のもとに、数冊の歌曲集を印刷させられるようになることと、それによって一躍有名になることを望んでいたのです。

よく知られているように、19歳だったフランツ・シューベルト--(というのがその若者の名前だったわけですが)の計画はうまくいきませんでした。なぜなら、受取人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがその楽譜の包みをヴァイマールからウィーンへ送り返してきた時は、何のコメントも付いておらず、添え状に対しても何の反応もなかったからで、たぶん歌曲そのものも、本当によくは見てみなかったに違いありません。

シューベルトの友人で機転の利くヨーゼフ・フォン・シュパウンが、次のような添え状を書きました。「閣下!ここに署名致した者は、御覧の手紙をもって閣下の実に貴重な時間から行く瞬間かをあえて奪わせていただきますが、この失礼は、同封致しました歌曲集が、閣下にとってあるいは必ずしも不愉快な贈り物ではないのではないかという希望によってのみ、許され得ることでしょう。(…)御覧の歌曲や、その他すでにかなりの数にのぼる作品に対して、この若き芸術家に贈られるでありましょう世人の称賛(…)この慎ましい若者に、作品の一部を出版することによって、今こそ音楽家としての道を開かせるため(…)より抜かれたドイツ歌曲の選集がその始まりとなるでしょう(…)選集は八冊からなる予定です。最初の二巻に閣下の詩が収められております(そのうちの第一巻を試作として同封いたします)。

しかし何しろ、この「試作」と名づけられたものの中には、「糸を紡ぐグレートヒェン」「野ばら」「海の静けさ」「魔王」といった傑作が含まれていたのです。そして、1821年の二度目の送付に対しても返事は来ませんでした。1813年から1824年までの間だけでも、シューベルトのゲーテ歌曲は73曲もできあがっておりまして、その中には、同一の詩に異なった曲を付けたものもいくつか含まれておりました。これは「ゲーテの音楽的詩才」——この言葉はシューベルト自身の日記からの引用ですが——をシューベルトがいかに高く評価していたかの明らかなしるしでしょう。

なぜゲーテが反応しなかったか、ということについては、推測あるのみです。ゲーテのもとには、若い詩人たち、学者たち、作曲家たち、そして画家たちからまでも、その作品が、評価依頼とともにひっきりなしに送られてきたということを、よく承知しておかなければなりません。当時、ゲーテの称賛を受けるというのは、まあ今で言えば、ドイツのテレビ放送の「四人の文学時評(Literarisches Quartett)」という番組で取り上げられ、推奨されるようなものです。そうなれば、その人は「成し遂げた男」となり(ごくたまに「成し遂げた女」というのも出ましたが)成功まちがいなしだったのです。ですからゲーテは、ただ単に過重な仕事に耐えかねて意見を言うのを拒んだだけだと考えられないわけでもありません。しかしです、この詩人公爵が、もしかするとやはりシューベルトの歌曲をちゃんと見ていたのではないか、それでいてしかし美学上の理由から認めなかったのではないか、という指摘があります——ちょうど、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンがゲーテの詩に付けたいくつかの曲を認めなかった例と同じようにです。

ゲーテが楽譜を読んだり書いたりでき、みずからも歌ったりピアノを弾いたりしたということは伝わっています。そうはいってもやはりゲーテは、身近にいて助言してくれる音楽の専門家たちの判断にも頼りたがったのです。その中でも特に頼りにしたのは、友人でベルリン出身の作曲家、カール・フリートリヒ・ツェルターでした。この人は、いわゆる「ベルリン第二歌曲楽派」を代表する人物で、ファニーおよびフェリックス・メンデルスゾーンの作曲の先生だった人です。ゲーテは、ツェルターが自分の詩に作曲してくれたものは適切だと感じました。なぜなら、有節歌曲は有節形式のままでしたし、詩行の長さや形式上の調和も正確に保たれましたし、また音楽は、大抵詩全体の普遍的な意味と基本的感情を把握するにとどまり、専横に、また解釈を加えつつ詩の前にのさばり出てくることはなかったからです。楽器のパートは簡素で、仕え役として背景にとどまりましたので、「ファウスト」の中の詩「昔トゥーレの王様が」に付けられたものなどいくつかの歌曲は、民謡のように全く伴奏なしでも歌えました。

ここで少しこの歌をご紹介して、この歌謡的、かつ本質に迫る簡素さと美しさの美学が、ツェルターの弟子フェリックス・メンデルスゾーンの交響曲の楽章のようなものにまでどんなに影響を与えたかを、具体的に示したいと思います。

この実体に迫る簡素さと美しさという美学的理想は、まだ完全に「ノーブル・サンプリシテ」の伝統、つまり、市民階級が解放された18世紀の「高貴なる単純性」という伝統の中にあります。これはたとえば、ヨハン・フリートリヒ・ライヒャルトという、やはりベルリン第二歌曲楽派に属する作曲家のゲーテ歌曲の多くについても言えることでした。この人は詩人ゲーテから高く評価され、1795年に出版されたゲーテの長編小説「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」の初版本には、小説中に出てくる歌曲や歌謡の全てにこのライヒャルトが付けた旋律が掲載されたほどです。その中には、後にベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ヴォルフその他の作曲家たちによっても作曲されることになる、有名なハルフナーやミニヨンの歌の数々が含まれていました。私たちは、これに続くセミナーの内の二回を「ヴィルヘルム・マイスター」による様々な歌曲の比較だけに費やすことになるでしょう。ツェルター、ライヒャルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、そしてヴォルフによる歌曲です。

しかし、ここで見落としてはならいことがあります。ライヒャルトの場合、これはとにかく小説本の中ではそうなっているのですが、その歌曲作品は、伴奏なしの旋律としてしか発表されませんでした(これは実は少し変で、小説の物語の中では、ハルフナーは自分のハープで前奏を弾いてから、もちろんそのまま伴奏も付け続け、少女ミニヨンも自分の歌にツィターで伴奏を付けるという話になっているのです)。でも、ゲーテが理想とした歌曲の姿というのは、簡素でありながらも強い表現力を備え、原則的にそれだけでもよくわかり、楽器のパートを本質的には必要としないような旋律だったのです。ゲーテは歌曲というものを大変高いところに価値づけました。ただしその場合、詩の方により高い意味が与えられ、音楽は、どちらかといえば仕え役を演じるべきであると信じて疑いませんでした。私は、ゲーテが一度描き留めた美しい絵を思い出します。その絵が意味しているのは、音楽は、いわば詩を軽々と持ち上げて共に運び去ってゆく気球のようなものであるべきだということです(気球というのは熱気球、フランス語で言う「モンゴルフィエール」のことです)。

たぶんこれでもうおわかりになると思うのですが、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンのかなりの曲や、シューベルトのほとんど全ての曲は、ゲーテの手にはおえなかった、いえ、それだけではなく、ゲーテはそれに対して抗おうとしたのです。なぜかというと、この二人は、詩と音楽が同格であるという立場から出発しているからです。ベートーヴェンとシューベルトの音楽は、歌詞の意味を解釈し、その結果詩は、作曲されることによって初めて、それのみでは持ち得なかったような、芸術作品として最高の地位を獲得するということがしばしばあります(例えば、アロイス・ヤイッテレの詩によるベートーヴェンの連作歌曲「遥かなる恋人に」や、ヴィルヘルム・ミュラーの詩によるシューベルトの「美しき水車小屋の娘」や「冬の旅」などを思い起こしてください)。こうして、詩、歌唱パート、そして自由に振舞うようになった楽器のパートは、より上位におかれる全体的まとまりの中で、ついに同格に扱われる構成要素となりました。これは、19世紀の間はずっと変わらず、20世紀になってもそうでしたが、シューマン以降は、楽器のパートの方に、本来的かつ根本的表現内容を受け持つという重要さが与えられるようにさえなりました。

ゲーテがそれに対して抗った(これは、詩人の態度としては決して悪くとるべきことではありませんが)とはいっても、この、歌曲というものの中に新しく生じた質の高さに、ゲーテが気付かずにいたわけではありません。とにもかくにも、ゲーテはベートーヴェンに直接会いましたし、ゲーテの「エグモント」のためにベートーヴェンが書いた音楽にはすっかり心を捉えられました。ということは、その中に出てくる歌曲にも魅かれたということです。さらに、1830年のある資料によって裏付けられるのですが、ゲーテは、シューベルトが以前送って寄こしたものには評価を与えこそしませんでしたが、やはり見ることはちゃんと見ていたようです。これは、次のような話です。この時代のもっとも有名だった女性歌手は、ヴィルヘルミーネ・シュレーダー=デヴリントという人でした(ベートーヴェンはこの歌手を理想的なレオノーレ役として、カール・マリア・フォン・ヴェーバーは理想的なアガーテ役として評価しましたし、リヒャルト・ヴァーグナーのゼンタとヴェーヌスを初演のときに歌ったのもこの人ですし、シューマンが「私は恨まない」という歌曲を献呈した人でもあります)。彼女はヴァイマールのゲーテの前で、フランツ・シューベルトが作曲した「魔王」をどうやら非常に劇的かつ感動的に歌ったとみえます。ゲーテは、彼女の額にキスをしてから言ったのです。「この曲は、前に一度聞いた時はちっともいいと思わなかったけれど、こういう風に演奏されると、全体がはっきりしたひとつの情景となるね。」この話は、実に好意に満ちたように聞こえますが、本当に理解したとか、ましてや感動したなどということはいえないでしょう。

それでは、ゲーテ時代後半に典型的な、美学上の、そう、芸術哲学上の様々なものの見方の間での闘争へと行きつくことになった、このドイツ語圏における歌曲というものの展開は、どのようにして起こってきたのでしょうか。これから、「歌曲」の概念、およびこの分野の発展の体系的局面と歴史的局面を、ごく一般的に説明してみようかと思います。

「歌曲」というのは、この地上のどの文化にも——そしてどの時代にも——ありましたし、今でもあります。それは、さまざまな社会的、機能的、そして美学的、芸術的意味を内に含んでいます。誰が(wer)、いつ(wann)、どのように(wie)、そしてどこで(wo)