Nichidoku Liederkreis | 日独リーダークライス 17
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ハルトムート・フラート
クララ・シューマンとロバート・シューマンの歌曲の創造


ファニー・ヘンゼル、フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディー、ロバート・フランツ、カール・レーヴェ、フランツ・リスト、リヒャルト・ワーグナーの歌曲 (太田晴子訳)

19世紀初頭、小さい田舎町に生まれたある青年は音楽にも文学にも秀でた才能ある人物でした。しかし市民階級に属する彼の両親は息子にそれを思いとどまらせ、社会的にも認められた立派な職業教育をさせようと考えたので、この息子は大都市へ行き、彼が格別希望しなかった勉学を始めます。しかし彼は芸術的な方向へ進みたいという気持ちを高め、腕を磨いていきます。その結果、彼は始めて間もない勉強を途中で投げ出し、両親は非常に驚くのです。
その後この才能ある青年は芸術家となりますが、その生き様は二種類の「自由」という言葉で表されるでしょう。つまりそれらは下記のようなものです。
貴族階級、教会、市民階級的な仕事等からは切り離された、自己目標を貫徹させるようなもの
社会的にも物質的にも保証されていない、ボヘミアン的(どの階級にも属さない自由な生き方をする芸術家たちのこと)な傾向をもった自由奔放な生き方
この青年は文学的な面も失うことなく、最終的には作曲家となりました。そして器楽の名人芸を披露しなくても作曲することだけで生計を立て、それによって生活基盤を築こうと考えるのです。
この青年はシェークスピアとゲーテ、またバイロン伯やE.T.A.ホフマンといったロマン派作家からも大きな影響を受けています。また彼の音楽的な手本はベートーベンでした。しかし彼の音楽はその時代の一般市民には容易に受け入れられませんでした。

19世紀前半のロマン派時代に書かれた伝記は、作り話のような性格を帯びている一方で、その時代の芸術家たちには、確かに、その家柄、生き様、性格等に類似点も見られます。例えば、この時代の2人の偉大な作曲家については次の通りです。
まず、ロバート・シューマンは1810年、小都市ツヴィッカウに住む本屋の息子として生まれ、その後法学を学ぶためにライプチヒに送られます。これは1803年にフランスの小都市コート・サンーアンドレに医者の息子として生まれ、その後、医学を修めるためにパリに送られたベルリオーズと比較することができます。
彼らは文学的そして音楽的に非常に優れていました。両者はともにこの二つの要素が非常に接近した音楽芸術のロマン主義を選択しています。彼らの手本はシェークスピア、ゲーテ、バイロン伯爵、E.T.A.ホフマンであり、またベートーベンでした。そしてそれをもって一般社会の散文的な現実性と対照的である詩的世界を描写していくことになります。

ロバート・シューマンは1835年、「音楽新時報」の中でヘクター・ベルリオーズの「幻想交響曲」についての批評をしています。そこでは作品の思考と感情の深い関連性について高く評価していますが、部分的には辛い批評も与えています。この2人は共にLied(歌曲)というジャンルにようやくたどり着いた作曲家です。またベルリオーズは<夏の夜>という「オーケストラ歌曲」を作曲していますが、これは音楽史上初めての試みです。
1840年の有名な「歌曲の年」以来Liedはシューマンにとって重要性を増していきます。それまでというと、作品1以前に幾らかの歌曲への試みが見られるものの、発表された作品1から作品23はピアノ作品ばかりです。シューマンの歌曲は、彼の声楽や器楽音楽といった他分野の作品へ影響を与えており、それはシューベルトの場合と同じです。
シューベルトの場合は作曲の試みが最初から歌曲でなされていましたが、シューマンの場合はベートーベンを手本にしていたこともあり、作曲はピアノ音楽から始めています。しかしその中にはすでに後の歌曲に見られるような叙情的で歌謡的な感情表現が多く見られ、ピアノ曲集の中には多くの「無言歌」も見出せます。(このジャンル表現はフェリックス・メンデルスゾーン、ファニー・メンデススゾーンによるものです)。そして文献学的にも証明できることですが、作品1以前の歌曲の幾らかは、例えば<間奏曲>作品4といった叙情的なピアノ曲の基盤にもなっています。

ではここで1840年の歌曲の年に至るまでのロバート・シューマンとクララ・ウィークの恋物語を紐解いてみましょう。この年は同時に彼らの結婚の年でもあります。シューマンが非常に文学的な人物であったということはすでにお話した通りです。彼のゲーテ崇拝は長大な<ファウスト>で頂点を迎えました。またバイロン伯の作品に対しては<マンフレード>、そしてE.T.A.ホフマンについては<クライスレリアーナ>が記念碑的存在といえるでしょう。それ以上にシューマンは今日ではほとんど忘れ去られたドイツの詩人、ジャン・ポールの小説を格別に評価していました。
ハイネ、アイヒェンドルフ、シャミッソーの抒情詩を愛したということは、それらの詩人のテキストを基にして数多くの歌曲や連作歌曲を作ったということにもはっきり現れています。彼の心を揺れ動かしたものは、作品の根底にある思考や感情、また哲学的、ロマン主義的な文学、美学等が圧縮された叙情的世界でした。
終わりなきもの、絶対的なもの、遠きもの、夜の闇に包まれたもの、不可思議性、途方もない自己、破れちぎれたもの、ロマン的な皮肉
それら全ては小市民的及びビーダーマイヤー調(19世紀前半、特に1815~48年頃ドイツ及びオーストリアで特徴的だった小市民的な社会風潮)の現実生活とはまったく逆のものです。詩的世界の散文的で味気ない世界に対する葛藤は、若きシューマンの経験した人生の総括ともいえます。それはまさにダビッド同盟のフィリスターへの対抗に重なる図式です。そのダビッド同盟は実際には存在せず、フロレスタン、オイセビウス、マイスター・ラロなども架空の人物です。シューマンの音楽に関する書物の中では、それらの人物が頻繁に登場しますが、それらはすべて彼の文学的で詩的な発見です。そしてその表現方法は擬人化された美学の結晶といえるでしょう。
フロレスタンとオイセビウスはシューマンの持つ、全く異なる二つの性格を表しています。つまり前者は熱狂的・直接的・感情がありすぐ燃え上がるタイプで、後者は冷静で理性的、そして批判的でよそよそしいタイプです。またマイスター・ラロは客観的で思考的な人物として描かれていますが、その人物の影には、クララの父でありロバートにとっても2年世話になったピアノ教師であるフリードリヒ・ヴィークの姿が見え隠れしています。

散文的で面白みのない法学を投げ出して音楽家となりましたが、これからどのように生きればよいのでしょうか。作曲家として生計を立てるということはまず無理です。音楽家として生きていくためには、名人芸を披露するようなコンサートを行ったり、または教会のカペルマイスターなどの定職を持つ必要があります。かくして20歳の青年シューマンはライプチヒに赴き、当時ドイツで名の通ったピアノ教育家であるフリードリヒ・ヴィークの門を叩きます。彼はピアノのパガニーニになりたいと希望します。
ここで<トッカータ>作品7を聴きましょう。

ロバート・シューマンは作曲法や音楽理論を修めようという気がありませんでした。彼は「腹から」込み上げてくるものをとっさに作曲しました。それは彼のフロレスタン側の勝利といえましょう。しかし彼はすぐにそのような調子で作曲を続けることはできないと気付きます。そうしてオイセビウスの面が台頭し、巨匠達の作品をマスターすべく勉学に励みます。生涯、手本としたのはJ.S.Bachでした。1830年にシューマンはヴィークに弟子入りします。およそ2年間彼の家に住み込むのですが、そこでヴィークの11歳になる娘のクララに出会います。6年後2人の間に愛情が芽生え、10年後には父ヴィークの猛烈な反対に遭いますが、法廷に結婚を成立させるために出訴、父ヴィークと争い、勝ちます。こうしてロバートとクララは結ばれたのです。
クララはというと、高い目標を掲げ、父の与える味気のない、そしてロマン的とは言いがたい練習を繰り返しますが、欧州の広域でピアニストとして名を轟かせます。一方ロバート・シューマンは、クララが行ったような経歴を持つことなく、また作曲家として名を成すこともありませんでした。そこから結婚生活中に強い心的葛藤が生じることになります。
一面的な反復練習ばかりしていたクララには一般教養の広さというものがやや欠けていました。文学的な面や哲学及び美学的な分野についてもその知識は不十分であったものの、その後ロバートによって助けられ補われていきます。
しかしロバートとは反対に、彼女は作曲法や音楽理論の面においては基礎的な手ほどきを早くから受けています。その他にもリヒャルト・ワーグナーの師でもあったトーマス教会合唱指揮者のテオドール・バインリヒに師事しています。その時代、名人芸を披露する器楽奏者達は皆、自作自演をするものであったし、またしようとも思っていました(私は時々、今日でもその名残が少しでもあればよいのにと思うことがあります)。クララは17歳にして多くの曲を演奏し、それは堂々たるものでした。その中で彼女はショパンを彷彿させるようなシューマン作曲の<夕べの音楽>作品7や、ピアノコンチェルト作品7を自作自演しています。
ここでクララが16歳の時作った<夕べの音楽>の中から<トッカータ>と、17歳の時の作品であるピアノコンチェルトの第一楽章の冒頭部分を聴いてみましょう。

18歳の時クララは定期的にロバート・シューマンの作品をあちらこちらで演奏しました。彼女の父は激怒しますが、そのことによって次第に欧州各地域に彼の音楽が広まっていきました。フリードリヒ・ヴィークの怒りはそのことによってさらに高まり、娘の前でロバートとの交際を断ち切るように命じます。またこの頃にはロバートは指の故障のために(これは有名ですよね)ピアニストとしてのキャリアを諦めなければなりませんでした。シューマンは1834年に<音楽新時報>(それは現在も発行されています)を設立します。それは次第に成功し、彼もある程度の生活基盤を築いていったのですが、父ヴィークにとってはシューマンが利口者であり、いつまでも目の上のたんこぶのような存在だったのです。
しかしながらシューマンに対するヴィークの考え方というものをまじめに受け止める必要もあります。神童と呼ばれ、欧州中に知られるようになったピアニスト兼作曲家の娘クララは、言うなればヴィークの創造物です。それ故、その娘の人生がどこの馬の骨か分からないようなボヘミアンに侵されてはならないと考えるのにもうなずけます。シューマンはしばしば鬱状態に陥り、自殺を考えることもありました。彼の神経はこうして次第に病んで行くのです。また多様な中毒症状にも苦しみましたが、それは音楽にもよく表れています。おそらく今日では
Sex 'n drugs 'n Rock 'n Roll
60年代の俗語。麻薬、イージーな人生、といった意味)と表現されるのではないでしょうか。

さらに、娼婦との性交渉がきっかけで梅毒に感染します。シューマンは1856年に精神病が悪化し狂気を起こし死亡するのですが、彼の没した地であるボン郊外のエンデニヒという所には、死の3年前の病状を記述したものがあり、そこから彼の梅毒は「慈愛」を意味するカリタスという名の娼婦から感染したということが分かっています。こうしてシューマンはフランツ・シューベルトや後のフーゴ・ヴォルフやフリードリヒ・ニーチェなどと同じ運命をたどる、つまり梅毒に苦しみ死を迎えるのです。またシューマンはシューベルトと同様に、異性とも同姓とも交渉を持っていました。これらの「悲惨事」は結婚生活中も続いていたのですから、クララの驚愕も分からなくはありません。
法廷でヴィークは、シューマンがアルコール中毒でタバコ以上のものも吸う喫煙者であるということを暴露しようと試みますが、失敗に終わります。そしてクララのロバートに対する愛情は困難があったにもかかわらず大きなものでしたが、1840年9月12日に結婚の運びとなり、それが<歌の年>となります。この時彼は130以上もの歌曲を作り、クララは後にロバートの名で部分的に発表していきました。歌曲というジャンルは言葉と音楽の詩的融合であり、両者は散文的な日常生活に対抗すべく、互いに支えあっているように見えます。

クララの母(父のフリードリヒとは離婚している)、マリアンネ・バルギルが住んでいたベルリンで3巻の歌曲集が部分的に作られています。そこではクララの手書きによる「作曲のための詩歌」の写しもあり、それをもとにロバートは作曲をしています。ハイネの詩による<リーダークライス>作品24、<ミルテの花>作品25、アイヒェンドルフによる<リーダークライス>作品39、ハイネによる<詩人の恋>作品48といった私達にもお馴染みの作品の数々は1840年に作曲されましたが、その作品の並べ順は現在のそれと異なっています。また遅い作品番号のついている作品127の中の<君の顔>、作品142より<私の馬車はゆっくりと行く>の2曲は、もともと<詩人の恋>の中に収められていました。そのことについてはラインホルト・ブリンクマン著の「シューマンとアイヒェンドルフ」の第95巻「音楽のコンセプト」の項を参照いただきたいと思います。
1840年の4月、ベルリンでシューマンのハイネ歌曲がクララ・ヴィークのピアノ、フェリックス・メンデルスゾーンの歌で初演されます。そのときまでには「歌曲」という新ジャンルは定着していました。ここで私はシューマンが試みた歌曲の枠組みを超えるような手法を見つけ出したいと思います。そしてその新しい側面からその特徴を探っていきたいと思います。
1843年のロバート・シューマンによるロバート・フランツの歌曲に対する批評は次のように非常に良いものでした。「フランツ・シューベルトは歌曲への下準備というべき作業をしたが、それはベートーベン風の処理である。(中略)音楽家達はウーラントやハイネの詩を用いることが多いが、かれはリュッケルトやアイヒェンドルフといった新しいドイツの詩人達の作品を取り入れることによって曲にスピード感を出した。そうした芸術観に溢れ、深い味わいのあるそれぞれの歌曲は、先人達が知らなかった世界であるということはもちろんであるが、それは新しい詩人の魂であり、それらは音楽に反映している。(中略)そして恐らく歌曲というものは、ベートーベン以来で意義のある進歩を遂げた唯一のジャンルであろう。」

シューマンは、ベートーベンがゲーテの作品に作曲したものや、特に連作歌曲<はるかなる恋人へ>などは歌曲の発展にとってたいへん意義深い前段階になっていると述べています。それまで歌曲というジャンルの典型は第一ベルリン歌曲学派、特に第二学派によく表れています。(ゲーテに評価されていたライヒャルトやゲーテの友人であったツェルターといった作曲家がそのグループに属しています)そこでは音楽に乗せられたテキストが全体を支配しています。音楽自身の課題というのは、高貴で美しく、分かりやすい旋律の中に統一された感情表現のあること、また詩行がうまく処理されており、詩の一連が対称的で循環した構成(巧くできた有節形式を想像していただければよいでしょう))をしているということです。ゲーテが民謡を理想といていたことは「気品のある素朴さ」を説いていたことからも分かります。それはゲーテの時代、つまり18世紀後半の感傷主義やシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)の影響もありますが、その時代の音楽というのはテキストの性格だけを表現するのみでした。
次にテキストと音楽の同価値性が謳われる時代が訪れます。するとゲーテはもうベートーベンの作品について何も言及できなくなりました。音楽がテキストを解釈し、また独断でテキストの韻律やデクラマツィオーン(どのようにテキストを音符に当てはめていくかということ)に介入することも許されました。また、言葉や文章を繰り返したり縮めたりといったような事柄が作曲者によって行われるようになり、場面と一人芝居のあるような歌曲も登場します(「魔王」のような曲)。このように作曲家自身がテキストを解釈するということが前提となったのです。このコンセプトをもって若きシューベルトはベートーベンの後を引き継ぎました。
シューベルトの音楽ではそのテキストの解釈が行われています。それゆえテキスト自体は大したことがなくても、歌曲という形になってから一流の芸術作品と呼ばれるようになりました(<美しき水車小屋の娘>や<冬の旅>を思い浮かべてください)。フェリックス及びファニー・メンデルスゾーンもまた、ベートーベンやシューベルトの「音楽とテキストの同価値性」というコンセプトを受け継ぎました。シューベルトにとって、またメンデルスゾーン兄弟にとっては、作曲家が文学的であり、またその時代全ての抒情詩についての知識があるということが当たり前になり、それは後の歌曲作曲家たちにも引き継がれていきました(以前にはそのようなことは全く言われていませんでしたし、後の時代でもそれが自明なこととは言えません。例えばドヴォルジャークやブルックナーは文学的な素養はありませんでしたし、彼らを純粋な歌曲作曲家と呼ぶことはできません)。

ロバート・シューマンはそれをさらに一歩踏み出しました。彼にとってロマン派的な音楽美とは、哲学者やシュレーゲル、ティーク、E.T.A.ホフマンといった芸術家達が発展させた世界であり、それが人生の基礎となるものだと考えていました。ロマン派時代の人々にとって音楽は最高の芸術形態で、特に器楽音楽は改進され、「絶対音楽」という名のもとに演奏されていました。その音楽というのは音楽自体が物を語るというもので、つまり教会や社会的な機能から「独立したもの」(言語的には「他のものから切り離された」となる)なのです。そしてそれはまさに神のような「絶対性」を限りなく帯びているのです。
絶対音楽というのはしかしながらテキスト及び具体的な内容から分離されたものです。テキストはそれぞれ「現世の苦しみ」等の現実性を帯びているのですが、音楽というものは、それを超えて感情や思考などを表現できる、つまり言葉だけでは到達できない世界をも表現できる手段なのです。シューマンにとって歌曲というものはピアノ部分に重心が置かれており、これは音楽史上まだ例をみません。
詩的であること、新しい詩人魂、またテキストは音楽と同様の精神性がある(ここでシューマンのロバート・フランツへの批評を思い出してください))ということは、歌曲の分野で新しい価値観が生まれたということを意味しますが、一方で、そこには絶対音楽のカテゴリーに含まれるような別の面もあるということを忘れてはいけません。
作曲することはテキストを解釈することである、ということはすでにシューベルトが行いましたが、それでも固有の事柄や名をつけがたいようなものについては楽器が代弁しています(ピアノに重心が置かれているということに歌手の皆さんは憤慨するかもしれませんが、音楽史上の事実では否定しがたいことです)。それはシューマンの歌曲でよく見られる「後奏」でよくお分かりになるのではないでしょうか。それはただの「後奏」以上に意義深いもので、それはもう器楽による新たな一節です。いわゆる声楽抜きの、器楽による節は(シューマンの「子供の情景」の)<詩人は語る>のように表題をもった音楽のようです。
シューマン歌曲における素晴らしさは、素朴で、民謡調の簡潔な美しさが忘れられていないということでしょう。また、文学的にも美学及び哲学にも精通した作曲者ならではの直接的に語りかけるような歌謡風の旋律があり、更に「新しい詩人魂」や「絶対音楽」が統合されています。そのことについては毎日のゼミナールで皆さんに驚いていただきたいと思います。
ここで<詩人の恋>からやや民謡風の曲を聴いていただきます。リュートまたはギターによる伴奏によるこの民謡(<あの歌がまたきこえてくると>)では、ピアノが最後まで歌いつづけ、ピアノが最後の決定的な言葉も下すので、無言歌と言えるでしょう。スイス人のクリストフ・ペレガルディヤンとアンドレアス・シュタイヤーがハンマーフリューゲルで素晴らしい演奏をしています。特にピアノの語り部分が絶品で、幾重にも声部が重なり旋律が進行していくところや、音全体を包み込むような上下の動きはは聴き所です。

ベルリオーズやシューマンは、その時代の文学ジャンルにおけるロマン的な皮肉を音楽で表現することに成功しました。それはシューマンのピアノ作品や歌曲によく表れていますが、彼の交響曲、室内楽、合唱曲といった「公式」の場で演奏されることの多いジャンルにはその手の皮肉は見つけることはできません。特にハイネによるテキストの多くは、叙情世界に住む詩人の「私」がよく登場します。その「私」は詩人自身を投影しているときと、そうでないときがあります。またこの人物(「私」)は詩のなかでは語り部として存在していることもあります。「私」は現実社会とは遠く離れた深い谷間のようなところに住み、彼は自分の姿を皮肉って表現することで本来の姿を隠しています。ハイネは風刺・嘲笑といった手段を巧みに使って現実社会に生きる苦しみを表現しました(図参照)。詳しくは各講義でお話したいと重います。
再び<詩人の恋>から<私は恨むまい>という曲についてです。これはシューマンが彼の時代の偉大なドイツの女性歌手、ヴィルヘルミーネ・シュレーダー・デヴリヨンに献呈した作品で、ハ長調という太陽の光のような調性で書かれています。肯定的で元気がよく、歌のパートはいつも支えられており、歌いやすくもあります。それによって「私は強い」ということが強調されていますが、同時にその姿勢は懐疑的で、自己皮肉的でもあるのです。

歌の年にできた3冊の歌曲の本が編まれる過程で、クララもまた自分でも歌曲を作ろうと思うようになりました。シューマンは1840年3月に彼女に次のように書き送っています。「僕がたくさん作曲するからといって君が何もしなくていいというわけではないんだよ。ちょっと歌を作ってみてはどうだい。そしたら病み付きになるよ。本当に魅力的なんだよ。」それに対してクララは「作曲なんてできないわ。そんなことをしたら時々本当に不幸せな気分になるし、第一そんな才能なんてないわ。けれど私が怠け者だと考えないで頂戴。テキストをよく理解して魂を込めて歌を一つ書き上げるなんて、とてもできるものではないわ。(後略)」
それでも、結婚した年の12月には彼女は思い切って3つの歌を作り、それをクリスマスにロバートに送りました。すると彼はすぐに二人で共同の歌曲集を出版することを計画します。1841年の6月に彼女はリュッケルト歌曲をようやく完成させると、ロバートはそれらを早速<愛の春>作品37に取り込みます。初版には作曲者として2人の名前が書かれました。またロバートには作品37、クララには作品12という二重の作品番号が付けられましたが、どれが誰の作品か記されませんでした。

そのことで「一般音楽新聞」の批評家の間ではかなりの混乱が生じました。その混乱ぶりをよく理解するために2つの歌曲を聞いていただきたいと思います、どれがロバートの、つまり男性的で、重苦しい雰囲気に包まれた歌曲でしょうか。そして微妙な女心の表現が乏しいでしょうか。またどれが柔軟で感受性豊かな、つまりクララの作品でしょうか。
<私が美しいために愛してくださるのなら>と<あの方はきました>を聴きましょう。

皆さんお分かりのように2曲ともクララのものです。新聞の批評家は独断と偏見でうっかり過ちを犯してしまいました。しかしその「男性的・女性的」という見解については今日でもよく言われることです。ここで皆さんに思い出していただきたいのは、ゲーテやヴィルヘルム・フォン・フンボルト、そしてベートーベンのような芸術家達は、男性的な部分(男性的であるということは自明)も女性的な部分も持ち合わせていなければならないこと、そしてそれらの性格を反映かつ発展させていかなければならないということを考えていました。またそれを通して広範囲な人間像が彼らの芸術作品の中で動き出すということを確信していたのです。ロバート・シューマンにおいてはフロレスタン(男性的)とオイセビウス(女性的)という二重人格がそれに重なります。

シューマンは1841年以来、連作歌曲の質を高めることはできませんでした。ゲーテの<ヴィルヘルム・マイスターによる歌曲集>には作品98aと作品番号が高いですが、1841年にできています。作品127と作品142の優れた歌曲はすでに1840年に作曲されているのです。
クララは夫より40年以上も長く生きたのですが、2つの意義深い連作歌曲を発表しています、当時の公式の場は今日のそれよりずっと意味あるものでした。そこで肯定的なよい批評を多く得、フランツ・リストはそのうちの3曲をピアノ曲に編曲し、彼のコンサートでも演奏しています。クララとロバートは14年間の結婚生活で8人の子供を得ますが、7人だけが生き残りました。(そのうちの一人は非常に病弱で、それはロバート側からの遺伝子的な問題から生じたものだといわれています)。4人の子供は長生きせず、3人だけが成人になりました。それに加え、彼女はいつもコンサートに出かけなければならず、それをなくしては家族が生きていけませんでした。そうした生活のなかでクララの自己疑惑は次第に強まり、作曲意欲も薄れていったのです。
最後にクララのためにロバートが敬意を表して作った美しい曲を聞きたいと思います。イ短調のピアノコンチェルトの主題は音名でCHAAです。それはイタリア語のCHIARAであり、つまりドイツ語のClara(クララ)です。

最後に、シューマンの「音楽家の家庭とその生活法則」からの引用です。皮肉たっぷりに次のように述べています。
歌手達は物知りなので、私たちは彼らから多くを学ぶことができるが、彼らはくだらないこともぺらぺら喋るので、全面的には信用できない!