Nichidoku Liederkreis | 日独リーダークライス 17
第17国際夏期講習会は | 講師陣 | 書庫

ハルトムート・フラート
シューマンとブラームスの間

2003年8月16日、日独リーダークライスにおける音楽学公演

ファニー・ヘンゼル、フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディー、ロバート・フランツ、カール・レーヴェ、フランツ・リスト、リヒャルト・ワーグナーの歌曲 (太田晴子 訳)

ファニー・ヘンゼル、旧姓メンデルスゾーンと、彼女より4歳年下の弟のフェリックス・メンデルスゾーンはハンブルクで生まれ(各1805年、1809年) 、ベルリンのライプチヒ通りで育ちました。特にファニーにとって、ベルリンは故郷であり活動の中心でした。というのも、ファニーは王家ご用達の画家であっ たヴィルヘルム・ヘンゼルと結婚した後も、そして息子のゼバスチャンを出産した後も、家族とともにライプチヒ通りに住みつづけたからです。また、メンデル スゾーン家の家庭内演奏会では彼女の作品も演奏されていきました。フェリックスは他の町に暮らしていたのですが、その為いつもベルリンへ戻ってきました。

1820年頃、ベルリンの精神文化は大きく花開きます。そこに田舎風の堅苦しさと薫り高き精神文化の入り混ざった、一風変わった、そして矛盾に満ちた文化 を垣間見ることができます。ベルリンはプロイセンの首都でしたが、ドイツの首都になるまでには、まだしばらく待つことになります。プロイセンの貴族と王家 は政治と文化活動に関しての決定権を持ち、彼らは自由で民主的な傾向を抑圧していきました。彼らは精神文化生活や文化活動に対しても権力を行使し、そのた めヴィルヘルム・ミュラー(「美しき水車小屋の娘」と「冬の旅」を書いた詩人)やベルリン在住のE・T・A・ホフマンの作品の出版が禁止されます。ホフマ ンに対しては裁判までもが起されました。後にハインリヒ・ハイネの作品に対しても同様のことがなされます。

当時、大学教授というという立場にありながらも、その職を追われ、投獄されるということも起こり得ました。フェリックスもまた抑圧の経験を持ちます。彼は 故郷(彼の暮らしていた町)で定職を見つけようとしますが、自由民主主義者として、そしてユダヤ人として二重に圧力をかけられます。そのため彼はベルリン を離れ、やがてヨーロッパ全域で活躍する芸術家となるのです。26歳にしてライプチヒのゲヴァントハウスの総監督及びカペルマイスターになります。 1843年にライプチヒに音楽学校を設立し、そこはドイツでも重要な音楽教育の場となります。メンデススゾーンはベルリンにも同様にコンサートホールや音 楽学校設立を企てますが、失敗に終わります。
注:ゲヴァントハウス(Gewandhaus)は「織物倉庫」という意味ですが、19世紀にコンサートホールとして使用されてからこの名前が残りました。

話をベルリンに戻しましょう。様々な活動が制約され、さらにそれに対しての検閲機関が存在したにも関わらず、そこには豊かな文化が開花します。芸術同様に 学問分野の活動も盛んになりました。大学(今日のフンボルト大学のことで、この大学はこの頃に設立された)では、自然科学者であり、世界旅行をして様々な ことを調査したことで有名な、ヴィルヘルムおよびアレキサンダー・フォン・フンボルトが、また哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、神 学者のシュライヤーマッハー等の多くの学者達が教鞭をとっていました。その他には、フェリックスの友人アドルフ・ベルンハルト・マルクスがここに音楽学学 科を設立しています。彼ら知識人たちは、いつもメンデルスゾーン家の客人であり、同時にライプチヒ通りのあずまやの中にある小ホールで行われていた「日曜 コンサート」の聴衆でもあったのです。ところで、フェリックスは大学に登録してヘーゲルの美学講義等も聴講しています。

ベルリンの「ジングアカデミー」という団体はカール・フリードリヒ・ツェルターが運営していました。彼はファニーとフェリックスにとって、非常に意味のあ る人物でした。そこで彼らは一緒に歌い、歴史的な大合唱曲とともに当時作曲された最新の作品も学んでいきます。そこで19歳のフェリックス・メンデススゾ ーンは、役者のエドワード・デヴリエントと知り合い、彼とともに1829年にバッハの<マタイ受難曲>が100年ぶりに演奏される際の準備を進めます。ツ ェルターはまたゲーテの親しい友人でもあり、ファニーとフェリックスの作曲の師でもありました。

ベルリンには多くの劇場やオペラハウスがあります。しかしファニーとフェリックスはそういった文化活動のほかに、サロンで行われていた文学、音楽活動も重 視していました。ベルリンにはパリのように多種多様な催し物がサロンにて半公開(入場料は取らず、聴衆はすべて招待客であったことから)というかたちで行 われていました。それらのサロンはフレデリック・ショパンやフランツ・リストといった作曲家達のものであり、彼らが主な出演者だったのです。
ベルリンのサロンは新作を発表する場であり、芸術分野、学術分野、政治分野における最新事情が話し合われる場でもありました。重要なのは、それらのサロン の多くがユダヤ系であり、知的で自立したヘンリエッテ・ヘルツ、ラヘル・ヴァルンハーゲン等のユダヤ人女性達によって運営されていたことです。40年ほど 前まではプロイセンをはじめとしたヨーロッパの国々では、ユダヤ人は男女ともにほとんど権利を有していませんでした。そうした状況に置かれていても、メン デススゾーン家の多くの女性達は自立心に満ち溢れていたのです。

メンデルスゾーン家では、ファニーとフェリックスに量的にも質的にも全く同様の教育を施しました。作曲教育についても同じです。この兄弟は生涯に渡り、自 分達の作品について意見を交わしあいました。しかしファニーにとっては一つ大きなタブー事項がありました。つまり公の場に登場すること、そして音楽家とし ての専門性を公表することはフェリックスのみに許され、彼女には固く禁じられていたのです。父、アブラハム・メンデルスゾーンは「芸術は装飾に過ぎなく、 自分自身の存在や行動を支える通奏低音(Grundbass)になりえない」と述べています。
注:それは今日、Generalbassと呼ばれています。

この兄弟が父の言葉を受け入れることは難しかったのですが、1846年(彼女の早い死の一年前)、ファニー・ヘンゼルはようやく彼女の作品を出版するので す。それは連作歌曲とピアノの「無言歌」の連作でした(ファニーがこの「無言歌」というジャンルを考え出したといわれています)。しかしその前、つまり、 まだ彼らの父親が生きていた時にも「こっそり」と出版への道を模索しています。1835年に書かれたフェリックスの手紙には「ファニーはそれまで存在した 歌曲の最高峰とでもいえるようなドイツ歌曲を作った」とあります。そして彼はファニーの作曲した5つの歌曲と二重唱1曲を自分の歌曲集、作品8と9に取り 込みます。公表されたということは極秘事項でした。フェリックスがその歌曲を単に自分の名前で発表したことを、愚かで誤認された行為であり「精神的な泥棒 」だとする音楽学者もいます。

ここでファニー・ヘンゼルのゲーテの「ヴィルヘルム・マイスター」よりミニョンの歌「ただ憧れを知る人のみが」を聴きましょう。私達は今までの講習会で、 他の作曲家達がこの詩をどのように扱ったかということを見て参りました。さて、ファニーがこの作品を作ったとき、彼女は僅か21歳でした。フェリックスが 感動したということは言うまでもありません。

歌曲(Lied)というジャンルと歌曲美学は、カール・フリードリヒ・ツェルターのもとで作曲教育を受けた兄弟にとって非常に重要な役割を果たしました。 彼はいわゆる「第二ベルリン歌曲学派」の代表者でもあり、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがその理想でした(ところでツェルターは、フェリックス が彼より60歳年上の「詩人伯爵」ゲーテと定期的に意見交換ができるよう工面をしました。そのため彼は5回ゲーテを訪問しています)。

ゲーテが音符を読み、また書けたこと、そして歌をうたい、ピアノを弾いたということが伝わっています。さらに彼は自分寄りの音楽専門家の意見を好んで聴き 、その中でもベルリンの親友、ツェルターに特に信頼を置いていました。ところでフェリックスはゲーテの前で最新の現代曲を弾いたり、歌ったりしています。

ツェルターの歌曲テキストの作曲技法を、ゲーテは程よいものだと感じていました。通作歌曲は節がそのままであり、韻の長さと形式の一致が完璧に守られてい ました、音楽は、基本的にはそのテキストの一般的な意味を把握できればよいもの、また全体の基本的な色合いを表現するものであり、それが表立って、テキス トの解釈を独断で行うということは許されませんでした。器楽的な部分はシンプルな背景に過ぎなかったのです。「ファウスト」の「あるところにトゥーレの王 が」のようなテキストをもとにした歌曲の多くは、まるで民謡のように、伴奏なしに歌われることさえあったのです。
ここで少しこのツェルター歌曲を紹介したいと思います。次いで、彼の弟子であったフェリックス・メンデルスゾーンの交響曲における、素朴な歌謡性とその美 しさを感じていただきたいと思います(オーケストラ版無言歌とでもいえる「イタリア」より第二楽章)。

素朴な美しさを理想とする美学は、18世紀の自立した市民の「高貴な純真さ(noble simplicité)」という伝統に基づいています。例えばヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトの、ゲーテの詩による多くの作品を例にあ げることができるでしょう。彼もまた「第二ベルリン歌曲学派」に属しています。彼はこの詩人に大変評価されていました。ゲーテの1795年に出版された「 ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」の初版の中で、小説の中に取り込まれている歌はライヒャルトの作曲したものであり、その中でも琴弾きの翁とミニョン の歌は大変有名です。後に、ベートーベン、シューベルト、ファニー・ヘンゼルー・メンデルスゾーン、ロバート・シューマン、フランツ・リスト、フーゴ・ヴ ォルフといった作曲家達が曲をつけています。
「歌曲<Lied>」というジャンルに対してゲーテが抱く理想は、旋律は素朴ながらも表現豊かなものでなければならないということです。それ 自体が何を云わんとしているか自明であり、器楽の部分には重心をおく必要はないと考えられていました。ゲーテは「歌曲」というジャンルを高く評価していま した。音楽はテキストの価値を高めるべきであり、むしろテキストの従僕的存在になるべきであると確信していました。そのことを、音楽は「気球(熱気球)の ようにテキストを軽やかに持ち上げ、それを遠くに運ぶもの」とゲーテは言っていますが、私はこの表現が気に入っています。

特にゲーテが強調したのは、疾風怒涛(Sturm und Drang)の感傷的な傾向です。しかしながら、音楽はテキストの持つ色合いに従えばよいと彼は考えていました。

ゲーテが、ベートーベンの多くの作品、そしてフランツ・シューベルトのほとんどの作品を容易に受け入れられなかったということが分かるような気がします。 ゲーテはそれらの作曲家に好意的ではありませんでした。というのも、彼らがテキストと音楽の同価値性に基づいて作曲していたからです。ベートーベンやシュ ーベルトの作品のなかでは、音楽が独自にテキストを解釈しています。また、テキストのみでは評価されなかっただろうという作品が、歌曲となったことにより 芸術作品に昇華するといった事態も起こるようになりました。(ベートーベンのアロイス・ヤイテレスの詩による「遥かなる恋人へ」という連作を、またシュー ベルトのヴィルヘルム・ミュラーによる「美しき水車小屋の娘」を思い浮かべてください)。

こうしてテキスト、歌唱部分、そして独立した器楽部分には同価値性が与えられました。このことは19、20世紀を通じて継承されていきます。さらにシュー マンが、より決定的な発言権を器楽部分に与えました。たとえゲーテがそのことに反対していても、歌曲ジャンルにおける新しい価値観は生まれていったのです (たとえそのことである詩人の気分を害したとしても)。

ファニー・ヘンゼルとその弟フェリックス・メンデルスゾーンは、師であるツェルターの意見に反して、ベートーベンやシューベルトの曲を学びました。ファニ ーとフェリックスの音楽は、テキストを解釈し、韻律やデクラマツィオーン(テキストをどのように音符に配分していくかということ)に独自に介入していきま した。音楽が言葉や文章のある部分を繰り返したり、テキストの一部を削ったり、散文的に終結することもあります。モノドラマやシーン(場面)から構成され た歌曲も作られ、作曲家の考えでテキストが解釈されるということも行われるようになりました。シューベルト、そしてメンデルスゾーン兄弟から、また彼ら以 降の作曲家すべて対して、文学的素養のあること、彼らの時代の抒情詩全般を知っているということが、歌曲作曲家となるための前提となったのです(それまで はそのようなことは言われていませんでしたし、その後も絶対に必要ということではありませんでした)。

ここでフェリックスの有名な曲、ハインリヒ・ハイネの詩による「歌の翼に」を聴きましょう。フェリックスの歌曲は姉のファニーに比べるとハーモニーの面で 実験的要素が少なくなっています。そのかわり彼は形式美に洗練し、構成がよくできています。

ここでメンデルスゾーン兄弟の歌曲とロバートおよびクララ・シューマンの歌曲の比較をしたいと思います。シューマンの歌曲作曲は1840年、いわゆる「歌 曲の年」に始まりました。それに対してメンデルスゾーンの歌曲や連作歌曲の多くは1840年頃までにはもう完成しており、出版もされていました。当時すで に有名だった「無言歌」はロバート・シューマンが彼の「音楽新時報」のなかで高く評価しています。

1840年の4月、ベルリンにおいてシューマンのハイネ歌曲がクララ・ヴィークのピアノ、フェリックス・メンデルスゾーンの歌で、メンデルスゾーン家の「 日曜コンサート」にて初演されます。もうこのときの「歌曲」はシューマンによって洗練されたものになっていました。1840年以降に作曲されたファニーと フェリックスの歌曲には、シューマン歌曲の影響がはっきり見て取れます。

1843年、ロバート・シューマンはロバート・フランツの歌曲に対して非常に好意的な批評を与えています。「歌曲という分野に関してはフランツ・シューベ ルトがすでに試みをした、しかしベートーベン風のやり方であった。(中略)ウーラント、ハイネといったもうすでに開花していた詩があり、それを多くの作曲 家達が用いていたが、リュッケルト、アイヒェンドルフといった新しいドイツの詩人達がさらに花を膨らませ、それは新しい歌曲の時代への潤滑油となった。こ うして歌曲に芸術性や深い意味合いが加わっていく。それを新しい詩人魂といい、それは音楽に反映しているのである。(中略)実は歌曲というのが、ベートー ベン以来、真の発達を遂げた唯一のジャンルといえるのではないか」

一体、ロバート・フランツとは誰でしょうか。私の書斎には彼の素晴らしい歌曲集があります。当時出版されたオリジナルなのですが、その表紙は鮮やかな赤の 地で、そこには金文字が書かれています。そのデザインは情熱と甘ったるさが混ぜ合わさったものといえましょう。フランツ・アルベンと書かれてあることから 、誰かの相続品だったのでしょう。もう楽譜の外見から分かることですが、ロバート・フランツは、当時、著名な文化人として扱われていましたし、事実、ロバ ート・シューマンとフランツ・リストは、彼らの長い論文の中でフランツについて書いています。そこでこの作曲家は高く評価されているのですが、今日では残 念ながらあまり取り上げられることがありません。

ロバート・フランツは1815年に生まれ1892年に亡くなっています。彼はザーレ川のほとり、ハレの合唱指導者であり、大学の音楽総監督でもありました 。そこで亡くなるまで活動し、特にバッハとヘンデルの作品に集中的に取り組みました。作曲家としては「素人名人」的な性格を具現化したようであり、彼は最 終的には歌曲作曲家として有名になります。さて、彼の作品には作曲年月日が全く記されていませんが、これは意識的になされたことです。作品1は1843年 に出版されました。それはシューベルトとメンデルスゾーン、またシューマンから明確な影響を受けていることが分かります。ハイネの多くのテキストは、シュ ーマンもメンデルスゾーンも、そしてフランツも作曲していますし、ファニー・ヘンゼルによる作品もあります。彼女の歌曲は1846年から出版されるように なりました。ところで、作曲家達がその作風に関して、一体誰から影響を受けたかのか、ということを知ろうとしても、それは難しいことです。

フランツ・リストはロバート・フランツに関する大きなエッセイを1855年の新音楽時報のなかで発表しました。彼はフランツをシューベルトと比較していま す。「シューベルトのファンタジーは情熱的で揺り動かされるものがある、(中略)彼の劇的なひらめきはそれぞれの内容の演出も行っている。(中略)それに 対してフランツは、場面(シーン)を盛り込むという必要性が一つもないので、劇的要素はあまりない。しかし、彼は心理的な色合いを出すことに成功している。 (中略)シューベルトのように、装飾や絵画的な要素を用いて我々のファンタジーを刺激すること、また圧倒的な、演劇で痛々しい表現を使用して不安な気持 ちにさせること、魅惑的なパトスで我々を圧倒するといったことはしなかった。彼は、私達を魔法の世界に静かに引き込むために、はっきりとした輪郭部分だけ をスケッチしたのだ。フランツは、統一された流れ、立体的な表現と形式を完成させるとともに、詩の細部にまで気を配った」

リストはロバート・フランツの一体何を賞賛したのでしょうか。彼の作品には、音楽とテキストとの同価値性はなく、音楽がテキストを解釈し、それを変化させ るということをしていません、つまり、音楽の役割を撤回するようなことをしているのです。フランツの場合、音楽がテキストの従僕となっています。しかしな がらフランツの作品のなかには、歌曲ジャンルに取り込むことのできるような多くの美しい歌曲があります。
 ここでロバート・フランツの「私の大きな痛みより」作品5–1と「湖上にて」作品5–3を聴きましょう。どちらもテキストはハインリヒ・ハイネのもので す。

カール・レーヴェについては、そのバラードが知られている程度です。しかし、ドイツでは、彼の作品が発表された当時から20世紀前半まで、非常な人気があ ったのです。レーヴェのバラードが暗譜で歌えるということは、一般市民的な教育を受けた者として当然のことでした。私自身の家族、つまり祖父と父の二世代 を通して証明することができます。家族のそれぞれにはお気に入りのバラードがありました(例えば私の父は<Tom der Reimer>です)。 
注:それは「詩人のトム」と訳せるでしょうが、<Reimer>というのは詩人、作曲家、歌手を三役兼ねたものであり、分かりやすく言うと、 当時の「ポール・マッカートニー」となるでしょう。

しかし、レーヴェ自身は、バラード作曲家としてだけでなく、包括的な意味での「作曲家」として、また第一級のピアニストとしても認められたいと思っていま した。しかし甲斐なき結果に終わります。ザクセンの片田舎、ロベユンで生まれた彼は、その活動の中心であったシュテッティーン( 現ポーランド領) に高校教師、音楽監督、カントル(合唱隊長兼オルガニスト)として46年暮らします。

レーヴェがバラードというジャンルを作り上げたわけではありませんが(歌曲作曲家達は皆バラードや、バラード調の語り物を書きました)、彼はそこに独自の 声楽音楽を作り出していきました。しかしヨハネス・ブラームスはレーヴェの作曲的な才能に疑いを持っていましたし、「才能があるように見せかけているだけ で、中身はせいぜい中級レベルだ」と非難の声をあげています。ところが、彼のバラードの絶対的人気は衰えることがありませんでした。
ここでスコットランドの古いバラード<Tom der Reimer(詩人のトム)>を聴きましょう(レーヴェ作曲)。

多くのヨーロッパの作曲家に共通する、面白く、そして逆説的な事項があります。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはドイツに生まれましたが、イタリア語で 作曲し、イギリスに生き、そこで活動をしました。ヘクター・ベルリオーズは、すでに名前が示すように、新ドイツ学派に数えられています。その中にはフラン ツ・リストも含まれています。リストの両親はドイツ、オーストリア人ですが、彼自身はフランスで成長した作曲家であり、しかも自分自身はハンガリー人だと 称していました。

リストはマジャール人であることを強調していましたが、しかし彼がハンガリー語で語り始めるのは晩年になってからです。1811年に彼が生まれたハンガリ ー地方のドボルジャン(ドイツ名ライディング)はハンガリーに位置していますから、彼がハンガリー人であることは間違いではありません。ピアノ作品、歌曲 や交響詩<ハンガリー>の内容はハンガリーについてです。しかしフランス語が彼の事実上の母国語であったし、フランツ・リストの美学はパリで育まれたもの でした。ウイーン経由でピアノの天才少年リストはヨーロッパの文化の都であるパリに来たのです。

作曲家というよりはリストは第一級のピアノの達人でした。ドイツではすでに非常に高い価値のあった純器楽音楽、つまり「絶対音楽」はフランスではあまり受 け入れられていませんでした(当時のフランスではオペラが最高の音楽芸術形態であった)。器楽音楽は少し心地よい、しかしながら中身のない、音だけの、価 値のない音楽として位置付けられていました。1855年にリストはアドルフ・ベルンハルト・マルクス(フェリックス・メンデルスゾーンの友人でフンボルト 大学に音楽学科を設立した人物)についての論文の中で次のように述べています。「高い教養のある人は、音楽よりも詩文、建築、彫刻、特に絵画を重要視して いる。それらは感覚に訴える芸術である上、思考も柔軟にする」。
注:器楽音楽は感覚のみに訴える、不完全な芸術形態である、という意味。

器楽音楽に欠けている内容を付け加えるために、そしてそれに「品性」を付け加えるためにリストは交響詩というジャンルを作り出します。1848年に彼はワ イマールでカペルマイスターになり、そこで誰にも邪魔されることなく、この新ジャンルの実験を始めることができました。それらは「思考による芸術作品」と でもいえるようで、その内容は詩や歴史や哲学、絵画などから取り上げられたものです。

リストは80あまりの歌曲を作曲したのですが、「歌曲」というジャンルは、今まで紹介してきた作曲家達のように、彼の美学の中心ではありませんでした。リ ストの歌曲のほとんどはドイツ語によるもので、フランス語によるものはわずかです。それはリヒャルト・ワーグナーが登場する前の、当時のドイツに捧げられ た貢物といえるでしょう。

リストはロバート・フランツに関するエッセイのなかで、「歌曲<Lied> 」というものは、ゲルマンの音楽女神であり、音楽的で詩的なものだ。それは憧れ(Sehnsucht)や情(Gemüt)といった言葉で表され るような世界である。フランス、イタリア、イギリスといった他の国々に叙情的な歌(Gesänge)はあっても、<Lied>(歌曲)は存在しない」と述 べています。

リスト自身は、ドイツ語の作品、つまりゲーテ、ウーラント、ハイネ、フライリグラートなどの詩に作曲したものについてのみ<Lied>(歌曲)と呼ぶ、首 尾一貫した態度をとりました。彼の<Lied>はシューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、フランツらの伝統に基づき、それを意識して作曲されています。
1850年に作曲された、リストの友人であるフェルディナント・フライリグラートのテキストによる歌曲「ああ、愛しい人よ、君を愛す限り」は、1848年 から49年にかけてのドイツ民主革命に由来しています。この詩は「私の恋人はしかしながら行ってしまい、私は泣いた」と悲劇的に終わっていますが、リスト はこの終わりの部分を修正しています。つまり始めの部分にもう一度戻り、丸みをつけているのです。
注:1848から49年にかけて、ヨーロッパ全域で民主革命が起こっています。

皆さんはもちろんこの作品を有名なピアノ作品の「愛の夢」第3番As-Durとしてご存知でしょう。この形式でこの曲は世界的に有名になりました。しかし 「愛の夢」全3曲はもともと歌曲であり、ピアノ版はトランスクリプションということになります。これら「愛の夢」は、つまり「無言歌」なのです。無言歌と いうジャンルを作り出したファニーやフェリックスのものよりずっとあからさまになっています。
 ここで再びピアノ版でこの曲を聴きましょう。私はこちらの方が作品として成功していると思います。

リヒャルト・ワーグナーの歌曲は、フランツ・リストよりもさらに少なくなっています。1813年に生まれたこの人物は、すでに早い時期から音楽劇的な影響 を受けて育ちます。19歳でゲーテの<ファウスト>に作曲をしますが、そこにはレシタティーボ、場面、アリオーゾ、さらに会話形式のメロドラマもあります 。しかし、ワーグナーの作品では独立した叙情的なカンタービレ、一貫性のあるピアノパートといった、その時代では歌曲というジャンルで標準化されていたも のがあまり見られないのです。ワーグナーの書いたピアノパートは、つまり、オーケストラスコアの存在しない架空のピアノスコアと言えるのではないでしょう か。
 ここで19歳のワーグナーが作った「糸を紡ぐグレートヒェン」を聴きましょう。皆さんはひょっとしてこのテキストに作曲したもう一人の作曲家、当時18 歳だったフランツ・シューベルトの作品と比較して驚くことでしょうね。ワーグナーは「大器晩成」型の作曲家ですよ!

ワーグナーは1851年から52年にかけて、楽劇(musikalisches Drama)に取り組みはじめました。そこにはテキストと音楽一般に関しての卓越した効果が見られます。 彼の「オペラとドラマ」という理論書はスイスに亡 命したときに書かれたもので、それは後の<ニーベルンゲンの指輪>や<トリスタンとイゾルデ>において芸術的に具体化されていきます。ワーグナーは今まで の作品で試行錯誤を繰り返し、その結果、伝統的な声楽音楽の概念から脱却することに成功しました。それまでは規則的に踏まれている韻を、韻律を守りながら 作曲することが重要だったのですが、その後は無視されるようになります。
注:ワーグナー自身は彼の作品のことを(musikalisches Drama)と呼んでいました。今日広まっている(Musikdrama)は彼の言葉ではありませんが、両者とも日本語では「楽劇」となります。

テキストの左右対称性と音楽的な左右対称性が一致するということは、それまでの音楽作品においては自明の事柄でした。ですからテキストの韻律法はカデンツ の付け方の法則とも一致しています。原則的にはワーグナーは<ローエングリン>までは、テキストと音楽の関係性を重視しました。その後、無造作に言うなら ば、今までやってきたこと( 2.4.8.といった偶数小節を規則的にまとめること<Quadratur> )には飽きたので、これからはいわゆる「作曲技法における矛盾現象」を面白く扱いたいと考え始めます。

ワーグナーはそれまでの伝統に反して、音楽的な散文といえるようなものを試みました。音楽は言葉でなく、交響的に「論証」されたものである必要があります 。つまり、あらかじめ提示してある左右対称性やカデンツを失うことなく、音楽的な考えを先に進めさせなければならないということです。旋律は「無限(unendlich) 」であり、オーケストラが編み上げていく主題動機の中に音楽の本質が存在するのです。示導動機(Leitmotiv)が声楽部分に置かれるということは 稀です。また声楽パートの歌曲的な要素は非常に少なくなっています。
注:示導動機とは、音楽上の動機によってある人物、場面、概念を表すもので、ワーグナーの戯曲制作(Dramaturgie)の要素となっている。

1857年から58年にかけて、マティルデ・ウェーゼンドンクのテキストによる<女声のための5つの詩>ができます。初めは声楽とピアノのために作曲され たものの、後にピアノパートは小オーケストラ用に書き直されています。今日では<ヴェーゼンドンク歌曲集>と呼ばれていますが、ワーグナーは意識的に、そ れらの曲を「歌曲」と呼びませんでした。ヴェーゼンドンクのテキストは素朴で伝統的な抒情詩なのですが、ワーグナーがそれを音楽的な散文に仕上げているか らです(このゼミナールでは非常に厳密にこの内容を取り上げていきます。もちろんマティルデとリヒャルトの興味深いゴシップ話や、この二人が経験したそれ ぞれの結婚生活における様々な問題についてもお話する予定です)。

1857年、まさにそのとき、ワーグナーは<ニーベルンゲンの指輪>の、<ジークフリート>の作曲を中断し、新しいオペラ創作に着手します。それは小ぶり な、出演者数も最小限にした小オペラになる予定でしたが、ここに<トリスタンとイゾルデ>が誕生するのです。<ヴェーゼンドンク連作>もここで重要な役割 を果たすことになります。「温室にて」と「夢」は表現上、<トリスタンとイゾルデ>の習作といえるでしょう。
最後に「夢」と<トリスタン>から第2幕のこの部分が現れている「ああ、沈みゆく愛の夜よ」を聴いていただきます。

ご静聴ありがとうございました。