Nichidoku Liederkreis | 日独リーダークライス 17
第17国際夏期講習会は | 講師陣 | 書庫

ハルトム−ト・フラット教授
〜ヨハネス・ブラ−ムスによる歌曲及び歌曲性の関連〜


1. 新しい軌跡
1853年9月30日、デュッセルドルフのロ−ベルトとクララ・シュ−マン夫妻のもとを、未だ無名の丁度20歳になった、ハンブルク出身の作曲家兼ピアニストが訪れました。彼はすでにヴァイオリニスト兼作曲家として名を挙げている若き芸術家、ヨ−ゼフ・ヨアヒムの紹介のもとに訪れたのです。この美形の若者−どうか後年のむさくるしい髭面の肖像画と混同しないよう−は、シュ−マン夫妻に芸術的かつ人間的にも深い印象を与えましたが、夫妻の一体どちらが、よりこの若者ヨハネス・ブラ−ムスに恋をしたのか、それは今日も尚不明のままです。
ロ−ベルト・シュ−マンはブラ−ムスとの邂逅を彼一流の詩的なやりかたで記しています。彼は20年前に彼自身によって創立された”音楽新時報”の中で、熱狂的な記事を”新しい軌跡”と題して載せています。もうここ何年もそのような記者としての活動はしていなかったにも関わらず、です。この記事がブラ−ムスを音楽界で衝撃的に有名にした一方で、若き作曲家としてかえって重荷となる大きすぎる期待をも興してしまいました。誰にもまして自己批判的なブラ−ムスはかなりの数の完成作品を自ら捨ててしまっており、その中には彼の厳しい審美眼に叶わなかったいくつもの歌曲も含まれていました。
恐らくこの、”新しい軌跡”に関してはみなさんも多少ご存知でしょうが、ここで敢えていくつかの文章を引き合いにだしてみたいと思います。この中には歌曲の分野についての見解も含まれています。
”わたしには、間違いなくこの時勢に非常に適した形で、突然にある1人の男が現れたように思われた。
その男はその才能を徐徐に我々の前に広げるのではなく、まるでミネルヴァ神のように、はなからクロノス神の頭部からすでに鎧に見を固め、弾けだしたのである。この若者はその知性と英雄の秤を守るためにやってきたのである。彼の名前はヨハネス・ブラ−ムス、ハンブルク出身、薄闇の静けさの中で学び、しかし芸術面では適格な師、エドワルト・マルクセンに見出され、最盛期にはもっとも有名な作曲家のうちの1人に数えられたヨ−ゼフ・ヨアヒムから推薦されている。彼はまた、その外見からもまたわかるように、まさしく選ばれし者なのである。”と。
シュ−マンの熱狂ぶりはあたかも、父ゼウス神の頭部からすでに成長し尽くして産まれたミネルヴァ神、ラテン語でアテネ、知性の女神に匹敵する音楽上の救世主にまで、ブラ−ムスを仕立て上げてしまいました。勿論、この熱狂ぶりは周りからの嘲笑を煽ることになりました。以来ヨハネス・ブラ−ムスは、”軌跡のハンス君”と呼ばれてしまうことになります。
”ピアノの前においては素晴らしい空間が広げられた。我々は何時の間にか魔法の環のなかに引きずりこまれていた。そこには天才的な演奏があり、あたかもオ−ケストラのように悲喜こもごもの世界が繰り広げられた。それらは、ソナタであり、交響曲の断片であったり、言葉なしにもその詩性が伺える歌曲であり、またはピアノ曲であり、ヴァイオリンソナタであり、弦楽四重奏であり、それらはつぎからつぎへと、違った断面を見せてくれた。それはあたかもそれぞれが異なる泉から流れ出でたようでもあり、それでいながら最終的にはひとつの大きな流れとなって滝のように弧を描いて、虹が見え蝶の舞う、夜鳴き鳥の声満ちる岸辺へと流れ着くかのようだった。”
ここでブラ−ムスがデュッセルドルフへ持参した歌曲のひとつ、ホフマン・フォン・ファラ−スレ−ベンの詩による”愛と春”作品3の2を聴いてみましょう。その前に少しだけ、ここでは植物の静物画のような、うねりにうねった、唐草模様ののようなカノンが聴いてとれますが、それはあたかも恋人に絡みつく愛の情念のようにも思われませんか?また、ヴァ−グナ−に先駆けること5年、若干19歳の若者の作品には例のトリスタン和音を聴き取ることができます。
シュ−マンの引用はここまでにしておきましょう。”新しい軌跡”の記事はブラ−ムスを有名にしたばかりではなく、シューマンはブラ−ムスが持参した作品を出版できるようとりはかってくれます。しかし自分に厳しいブラ−ムスは悩んだ末に非常に少数の作品だけを選び出しました。そのはねられた中には多数のヴァイリンソナタや四重奏、三重奏、歌曲などが含まれますが、幸いなことに作品3,6,7といった歌曲群のなかにはあきらかにシュ−マンからの影響が多大に見られます。

2. 生い立ちと人格形成について
1833年にブラ−ムスはハンブルクにて生まれました。ハンブルクは当時アルトナとは訣別しており、なんとデンマ−クに属していました。ハンブルクはライプツィヒやベルリン、ヴィーンに比べると明らかに音楽的には魅力に乏しい街でもありました。ブラームスの父、ヨハン・ヤコブは所謂職人気質で自らを”楽器演奏屋”と称し、それはまた、昔の”角の笛吹き”と同等の意味合いを帯びていますが、幾つもの異なる楽器をこなし、(例えば弦楽器、フル−ト、ホルン)あらゆる催し物の際に演奏するといった程度のもので公式には彼はコントラバス奏者およびホルン奏者として知られていました。彼は自身を”演奏屋”と称し、一度たりとも芸術家として名乗ったことはありませんでした。
19世紀前半に生を受けた作曲家達、例えばショパン、ベルリオーズ、リスト、シュ−マン、メンデルスゾ−ン、ヴァ−グナ−等は一概に音楽化の家系に生まれたのではなく、皆中流家庭の出身でした。ブラームスは反してその下の小市民的な家庭に育ち、家庭でも学校でも芸術に関して学ぶ機会というものは非常に少なかったのです。驚くべきことに、ブラームスは自己規律によって生涯の殆どを通しそういった広範囲での勉強を続けており、19世紀人としたは非常に珍しいタイプでもありました。
まずは文学的素養であり、それはまた歌曲という分野には欠かせない素養でもあります。ブラームスは手書きによる気に入りの書物の部分書きを集めており、それらを”若きクライスラーの宝箱”と名付けています。なぜクライスラーなのかというと、この名はE・T・A・ホフマンの”牡猫ムルの生涯”という作品の主人公、宮廷楽士ヨハネス・クライスラーから来ており、このことからもブラームスのホフマンへの特別な傾倒が見て取れます。ホフマンはその作品群の怪奇性と空想性で知られており、一種特殊な文学的位置付けを取られていますが、すでにロベルト・シューマンもまた、その宮廷楽士の像を”クライスレリアーナ”という作品の中に反映させています。1854年8月15日付けのクララへの手紙の中でブラームスはこう記しています。”わたしにはよく、自身との葛藤が起こるのですが、それはブラームスとクライスラーが争っているということなのです。”
そういった怪奇趣味、空想趣味と落ち着いた鷹揚さとの間の”争い”をここで聴いてみることにしましょう。ブラームス19歳の時の作品でピアノソナタ嬰へ短調、作品2の冒頭部分がそれにあたります。
文学的素養と並行して重要であったのが、自然科学及び美術の素養でした。彼は画家であるアンゼルム・フォイア−バッハやマックス・クリンガ−、アドルフ・フォン・メンツェル等と親交がありました。中でもブラームスにとって特に重要であったのが、哲学と宗教評論の分野でした。こういった背景を知らなければ、”ドイツ・レクイエム”や”4つの厳格な歌”などを理解するのは非常に難しいのではないでしょうか。
そして音楽的素養こそが、ブラームスにとっての最も重要な素養でありました。彼こそは、音楽史を良く知る最初の作曲家でありましたが、その後も長い間そのような人物は現れませんでした。彼は15,16、17世紀の音楽を再発見し、合唱指揮者として、第2の故郷となったウィーンにおいてそれらを再演に導きましたが、ウィーンの人々には特に享けなかったようです。彼の音楽学的興味は更に作曲家全集を出版する動機ともなっていくのですが、その中にはヘンデル、クープラン、モーツァルト(レクイエムの校訂)、
ベ−ト−ヴェン、ショパン、そしてむろんシュ−マンが含まれます。
また音楽理論的素養は彼自身の作品にも色濃く、再発見した古い音楽技法を新たな姿で体現しており、例えば4番の交響曲の第4楽章にはシャコンヌの技法が取り入れられています。
そういった通奏低音的に入り組んだ考え方は歌曲の分野にも見受けられます。(対照的に簡潔なカノンの技法はすでに作品3の2で検証済みです)例えば作品59の7、彼の友人であるクラウス・グロ−トの詩による”私の傷ついた心は欲する”という歌曲は過剰なまでに通奏低音的な”芸術作品”となっており、テーマの音価は自在に縮められ、または引き伸ばされ、反行や逆行のカノンとなってそこここにちりばめられています。
ここで人は、非常に机上の論理的な、音楽性のない作品を想像しますが、耳に響くのはまことに音楽的な、そういった作為性を微塵も感じさせないものとなっています。同じことは、彼の晩年の作品、”4つの厳格な歌”についてもいうことができます。

3. クララ・シュ−マン
14歳も年下のブラームスからクララへの手紙は時代の証人のように、今もなおわれわれを感動させてくれます。1854年以降のこの手紙のやりとりは、若干21歳の輝かしい成功裡の直前にいる若者の思考と心情をあきらかにしてくれます。
しかしここで、悲劇が起こります。梅毒に冒されたシューマンは自殺をはかり、未遂に終わったものの
ボン近郊のエンデニヒの精神病院に送られてしまうのです。クララは面会を許されず、ブラームスは2人の間の仲介役を買ってでます。彼の手紙により、我々はシューマンの病状をつぶさに知ることができ、かついかにしてブラームスのクララへの尊敬の念が、いつしか秘められた愛情へと変化していくのを窺い知ることができるのです。
手紙から窺い知れるのは勿論大変な状況でした。シューマンは精神病院、クララは大家族を養うために常に演奏旅行の旅路にあり、若いブラームスはシューマン家の家政婦ベルタとともにデュッセルドルフに残り、シューマン家の子供達の面倒を懸命にみていたのです。
そしてまた、当時の中流家庭においてどのような暮らしがなされていたのかさえも記録されています。医
者への診療所通いや、どのような遊びが流行っていたか、書籍の好み、音楽の好み...。
そしてここで注目したいのが、歌曲との関連性です。ブラームスは子供達と共に童謡や民謡を歌い、その中からいくつもの作品を子供向けに編曲しています。これが後に”14の子供のアルバム”となり今日もなお親しまれています。
ここではっきりさせておきたいのは、クララとブラームスとが、後々”怪しまれるような”内容の手紙を廃棄してしまったということです。しかし、廃棄されなかった手紙の冒頭部分からも明らかなように、”尊敬する奥様”から”良き友よ”、”愛するクララ様”を経て”最愛のクララへ”と高まっていきます。そしてこれらの手紙の中で最もよく話題に上ってくるのが、”歌曲”についてなのです。
1856年のシューマンの死後、あたかも話がついていたかのように、ブラームスはまるで父親のような愛情をもって14歳年上のクララの面倒をみ、それは感動的でもありました。
1857年10月8日ブラームスはこう書き記しています。
”あなたからのお手紙によると、あなたの瞳がこちらを向いて私に笑いかけてくれているかのようです。
愛しいクララ、あなたの嘆きはもちろん、癒えようのない、深いものには違いありませんが、度を越さないよう気を付けなければいけません。人生というものはかけがえないものです。不安定な精神は、身体的にもよくありません。一体なんのために神からの賜物、希望というものがあるのでしょうか?喜びにあっても悲しみにあっても、落ち着いているのが真の人間ではないでしょうか?”
愛情が去ったあとも、友情は1896年のクララの死まで絶えることなく続きます。ブラームスは時折手書きの楽譜や試し書きをクララに宛てて送り、彼女に意見を伺っています。クララの手紙からもブラームスの作品についてうかがい知ることができます。例えばヴァイオリンソナタの作品78について、1879年の6月に彼女はブラームスにこう書き送っています。”最初の素敵な1,2楽章の後で、あの熱狂的な旋律を8分音符の連なりに見て取れた私の喜びを解かってくださるかしら?あれは、”私の”旋律です!!
私以外の誰も、この旋律を感情豊かに受け取ることはできないのですから!”ブラームスはここで友人クラウス・グロ−トの詩による”雨の歌”作品59の3をヴァイオリンソナタに転用しています。今日ではこのヴァイオリンソナタもまた”雨の歌ソナタ”と名付けられているほどです。

4・民謡の構想
ブラームスがシューマンの子供達のために民謡を編曲したことからも明らかなように、彼の民謡への傾倒には特別なものがありました。1860年のクララへの手紙には、今日ではすでに有名になった彼の言葉が記されています。”歌曲の世界は今間違った方向に向いつつあります。それは構想というものを充分に表現することができなくなりつつあるからです。私にとってそれは民謡というジャンルで表現可能であるように思えます...。”
ブラームスの全作品においてそこかしこにみられるのは、民謡そのものや民謡からの編曲であり多岐にわたる演奏形態をとっています。また正確には民謡そのものとはいえないけれど、民謡的な特徴、色合いといった分子も、時折器楽曲の緩徐楽章に姿を見せます。
ブラームスはその生涯に渡る行程と民謡の内容的な関連性にもまた無関心ではありませんでした。1894年8月、クララに宛てた手紙からもわかるように彼の生涯の終わりに近いこの時期、彼は更に49曲の民謡編曲を行っています。その49曲目、”ひそやかに月は昇る”について、ブラームスはこう書いています。”お気付きになりましたか?この49曲目は私の作品1と同じモティーフでできているのです。それはまるで自分の尻尾に噛み付く蛇のように、歴史は今終わり、環は完結した、という象徴なのです・・・”
ブラームスは作品1のソナタの中に次のようなテキストを残しています。”ひそやかに月は昇る、青い、青い花々、銀色の雲を通りぬけ、青い、青い花々よ。峪のばら、広間に集まる少女達、ああ、美しきばらよ。”
この民謡、または民謡的特徴の中にはロマン派的な”民族、国民”の概念が息衝いています。ちょうど知識階級の中では、根源崇拝的な、失われたものどもへの憧憬、ひいては美化された”美しい異郷”への憧れといったものがあった時代のことです。それによって去り過ぎた時を感傷的に取り戻そうとしていたのでしょう。たとえば、アルニムやブレンターノの”子供の不思議な角笛”などがそのよい例で、シューマン、ブラームス、マーラー等あらゆる作曲家が音楽化しているのですが、出版元はそれを歓迎し、自らテクストを探し出したりする手間を惜しんだり、厭うことはありませんでした。また、ツッカルマーリオのように自らの作曲したものを”民謡”として出版する例もあり、ブラームスさえも彼を信じてしまい、自身の作品旋律として借用してしまっています。
本来の洗練されていない、本質的な土着の民謡は、20世紀になって初めてベラ・バルトークによって集約、出版されたものの、19世紀においてはまだ封印された状況にありました。ブラームスもまた、その立場をとったのです。彼は、彼の芸術的、美学的な構想に適っていたものだけを取り出して、つまり土着的でないものだけを選び抜いて自らの作品に反映させたのでした。
この”民謡的”構想を反映している、最も有名な歌曲が”今晩は、おやすみ”作品49の4でしょう。この曲は飛ぶ様に売れたことから、ブラームスは出版社から版を重ねるよう、いつも矢のような催促を受けていました。そのうち、彼も嫌になって”悪い子のための、短調版を出してはどうか”と自ら揶揄しているほどです。この、”子守唄”の中で注目に値するのは、ピアノのバス部分にオーストリアの伝統舞曲レントラーが隠れているところです。そして、これは個人的な想い出なのですが、いつも理解に苦しんでいた部分がありまして、”明日の朝はやく、もしも神が望むなら、目を覚ませてくれるだろう”、のくだりで、いつも幼い私は思ったものでした。”もしも神様が望まなかったら?”

5. 歌曲と”新ドイツ派”の美学
ブラームスが当時どのような風潮と論議を戦わせていたのかを知るためには、ここで”新ドイツ樂派”に触れておくべきでしょう。彼らの美学に関して、ブラームスは非常に批判的立場をとってはいましたが、その一方でヴァーグナーの才能にもまた驚嘆していたのです。微妙な距離を保ちながら、ヴァーグナーの影響はブラームスの作品群に顕著に表われています。
1851から52年にかけて台頭したリヒャルト・ヴァーグナーの新しい音楽劇的技法は歌曲という分野における音楽とテキストの関係に大きな変革をもたらしました。この”楽劇”という概念は、その後のヴァーグナーの作品”ニーベルンクの指輪”や”トリスタンとイゾルデ”の中で完成されていくわけです。
ここで最も重要視されているのは、声楽曲におけるある理論または概念なのですが、ヴァーグナーが自ら以前に多用していた”規則的な韻律の上に規則的押韻を施す”ものとは多少異なる側面からの概念となっていきます。
既往の”規則性”にのっとった左右対称の関係はもちろん音楽面にも取り入れられ、押韻の規則は終止形に繋がるものとして扱われていました。”ローエングリン”まではヴァーグナーもまたこの既往の概念を使用していましたが、このような”四角四面な理論的音楽構築”から徐徐に離れつつあるのがこの時期でありました。その代償として、ヴァーグナーは”音楽的散文”形式を開拓していったのです。音楽は”引き伸ばされ”交響的になり、旋律は長大になり、カデンツァは後送りになり、韻律の法則はなしくずしになっていきました。音楽はここで”終わりなき”姿をとることになったのです。
音楽の実質はここでオーケストラの中に編みこまれていき、歌の旋律は時折その混沌の中からライトモティーフとして演劇性ある場面において浮かび上がってきます。そして愛すべき”素朴さ”(民謡性)は非常に押さえられていきます。
この”散文”技法はまたフーゴー・ヴォルフの歌曲に対する理想形となっていきます。ヴォルフはかつてその若い日にヴィーンのブラームスを訪ね、自作の歌曲を披露しました。ブラームスはその実力を認めはしたものの、作曲技法の未熟さをより重視し指摘しました。気の荒いことで有名だったヴォルフは憤慨し、猛り狂ったあげくにブラームスの敵に回り、徹底的に新聞評で批判していくことになります。
ヴォルフのメーリケ歌曲について、ブラームスは後年こう言っています。”そう、音楽というものを本来重視していなければ、このように詩を朗唱するのはなんと簡単なのか!!!!”と。
ブラ−ムスの尺度はシューマンに近く、音楽自体のもつ重力とテキストの重力とは対等に扱われなければならない、というものでした。フーゴー・ヴォルフ自身について、ブラームスはこうも言っています。”それ以外には非常に明晰な、器用な勉強家なのだがね。”
ブラームス自身はヴァーグナーの改革に特に傾倒していませんでした。しかし、その”散文”的手法を濫用してはならず、目的を明確に取り入れていればその手法もまた、使うに値するものと評していました。
その”散文”的手法を彼は”4つの厳格な歌”に取り入れ、”死、それは冷たい夜”といった歌曲にもその傾向がみられます。またゲーテの”ハルツ山脈への冬の旅”による”アルトのための狂詩曲”作品53にもヴァーグナーの影響が顕著にみられます。これはアルト、男性合唱およびオーケストラのために書かれたものですが、その冒頭のアルトの悲痛な朗唱〜アリオーゾからも明らかなように、非常に劇性の高い、オペラ的な作品となっています。しかしここにさえも、”民謡的響き”は息衝いており、男性合唱の慰めにみちた部分は素朴で美しいハ長調の旋律に縁取られています。クララへの手紙のことを、まだ覚えていらっしゃるでしょうか?”なんのために神からの賜物、希望というものがあるのでしょうか?喜びにあっても、悲しみにあっても落ち着いているのが真の人間ではないでしょうか。”

6. ブラームスの作品全般における歌曲性と歌曲
ヨハネス・ブラームスの全作品においてかなりの部分を占めているのが歌曲(リートおよびゲザンク)です。40以上もの作品番号、その中にはそれぞれ5〜9曲もの歌曲が含まれ、計200曲以上のソロの歌曲、100以上の民謡の編曲、更に約100もの重唱、無伴奏の合唱曲、3声の女性合唱などが作品として残っています。
選りすぐりのテキストに旋律をつけるのは、シューマンの伝統に通じるものがあります。たとえばゲーテ、アイヒェンドルフ、ハイネ、ウーラント、メーリケなどがそれらに含まれます。しかしブラームスは当時の流行作家であった、ヘッベル、シュトルム、スイス人のゴットフリート・ケラーや北ドイツ出身のクラウス・グロートなどの作品をも取り上げています。その上、今日では文学レベル的に三流と見なされている作家群、例えばダウマー、ジムロック、シュミット、レムケなども積極的に取り入れています。彼は一体、文学的なテキストの内容に注意を払っていなかったのでしょうか?いいえ、そんなことはなかったのです。
ブラームスは大仰な大作家の作品を必要としていたのではなく、音楽に空間的余裕、作曲させる余地を残した作品を欲していたのです。例えばシューベルトのゲーテ歌曲について、彼はこう言っています。”シューベルトのズライカ歌曲の最終節、”この動揺は一体何なのか、”というくだりこそが、ただ一節、シューベルトによってゲーテの言葉が嵩められている部分である。それ以外はみな、音楽が響く余地なく作曲されてしまっている。”と。この論証はマーラーにとってブラームスを彼の大前提とするきっかけとなりました。ブラームスはマーラーにはるかに先駆けて、この非常にロマン派的な志向、言葉のみならず、音楽にもまた対等な配分をし、空間的な余裕”間”を与えることに成功しています。
ところでハイネの詩に音楽付けするのは、19世紀当時無謀な試みでもありました。何故ならすでに大量のハイネの詩による音楽作品が巷に溢れていたからです。1885年の時点で、2750曲もの歌曲があり(!)、”君はまるで花のようだ”という詩に関してはなんと222曲もの作品が記録されていました。しかし、ブラームスは少し違った立場をとっており、彼以前にシューベルトやメンデルスゾーン、シューマンらによってすでに作曲されているハイネ作品には指を触れていないのです。
ブラームスにとって同等に重要であったのが、”子供の不思議な角笛”のような民謡の歌詞でした。彼はそれらの”口頭の伝承”による歌詞にまったく新しい音楽の息吹をあたるのに成功しているのですが、バルトークに先駆けること半世紀、スロヴァキアやボヘミア、セルビア語の歌詞群もまたその例外ではありませんでした。(それらはむろんドイツ語に訳されていたのですが。)そのよい例が”少女の歌”作品85の3でセルビア語の原文に、4分の5拍子という民族色溢れるものとなっています。
歌曲の作曲家としてのブラームスを語る時に忘れてはならないのが、ワルツ、”舞曲”作曲家としての彼の在り方です。ウィーン在住の作曲家として避けて通ることのできない”ワルツ”の分野で、ブラームスはヴァーグナーやヴォルフ、ブルックナーらと違い、臆することなく才能を発揮しています。しかもまったく新しい創造物、混合四声と四手のピアノのための”愛の歌”舞曲を産み出します。これは信じられないことにハンガリー舞曲をも凌ぐほどの成功となり今日に至っています。最近では、ダウマーのテキストによるこの作品がしばしば大編成の混声合唱によって演奏されていますが、本来は四重唱のために書かれたものなのです。
最後に諸々の事情から自然的に発祥した現象に触れておきたいと思います。ブラームスは歌曲の方向性やその性格を自らの器楽曲に取り入れていますが、その現象は例えばマーラーへと受け継がれていきます。
その最も顕著な例は、”私は眠りから段々に覚めて”と”死への憧れ”という歌曲で、ピアノ協奏曲第二番の緩徐楽章に取り入れられています。ヴァイオリンとピアノのための”雨のソナタ”しかり、作品100のヴァイオリンソナタもまた、歌曲との密接な関連が、歌手ヘルミーネ・シュピースに献呈されていることからも明らかに見て取れます。
19世紀の歌曲群の中で最も有名なのは、”サッフォーの歌”作品94の4であり、リガ出身のドイツ・バルト系の詩人ハンス・シュミットのテキストが用いられています。ここにはブラームスの歌曲への集大成が見られ、まるで民謡的に素朴で美しい旋律が、サッフォーの入り組んだ韻律にのってって高らかに謳われ、その左右非対称な継続的拍子変更といった作曲の構築に組織片のように組みこまれています。和声的には、ブラームスにしては珍しいほどに平穏なのですが、断片的に計算され尽くした緻密さをもって行われています。最後にこの”サッフォーの歌”とヴァイオリン協奏曲の緩徐楽章を聴きながらこの講演をしめくくることにいたしましょう。この協奏曲は誰あろうヨーゼフ・ヨアヒムに献呈されており、その緩徐楽章の冒頭ではサッフォーの歌の冒頭がパラフレーズとして用いられています。