Nichidoku Liederkreis | 日独リーダークライス 17
第17国際夏期講習会は | 講師陣 | 書庫

ハルトムート・フラット教授による
<フーゴー・ヴォルフの歌曲とその成り立ち>

2006年度 日独リーダークライス 夏期講習会・於ロッテンブルク

学生の下宿という生活形態は洋の東西を問わず普遍的なものですが、ここでお話するヴィーンの音楽大学の学生、実家が極貧である16歳の少年たち3人が、1人の変わり者の婦人のところへ下宿しているというのはいささか風変わりともいえます。
しかも最も風変わりという点ではこれが1876年当時であり、このうちの2人がグスターフ・マーラーとフーゴー・ヴォルフという名であったことでしょう。(3人めは非常にヴィーン的なクリツィザノフスキーという名前でしたが。)マーラーとヴォルフ2人の履歴というのは不思議なことによく絡まりあっています。両者ともオーストリア・ハンガリーの別々の君主国出身であり、マーラーはボヘミアのカリーシュト出身、ユダヤ系商人の子供であり、ヴォルフはスロヴァキアのヴィンディシュグラーツ出身、染め物屋兼皮商人の息子でした。2人とも早くから音楽の天分が目立ち、ともにその助けを借りて小市民的な狭苦しさから抜け出したいと切望していました。

しかしその望みは2人にとって非常に不公平なかたちで実現することとなります。
マーラーが望みうるすべての役職に達したのに反し、ヴォルフは早すぎた死の間際までその成功を苦い現実として噛み締めることになります。ヴォルフは結局大学の卒業証書もなく、1877年には退学処分となっています。ようやく手にしたカペルマイスター職さえもすぐに失い、3年もの間ヴィーンの<サロン新聞>という、ゴシップ紙に批評を書く日々が続きましたが、歌曲作曲家として遂に成功する運びとなりました。しかしそれさえもさらなる成功を望むヴォルフを満足させるには至りませんでした。

エミル・カウフマンに宛てた手紙の中でヴォルフはこう書いています。<歌曲作曲家というお世辞めいた評価は私の内面を曇らせるにすぎない。それは私がまるで歌曲という小さな分野だけを手中に収め、歌曲だけ作曲しているかのように思わせる・・・> 偶然かヴォルフの故意かはいざ知らず、イタリア歌曲集の巻頭には<小さきものどもも我々を魅了する>というミニチュアめいた曲があり、私個人にはそれが非常に計画的に思われます。

大作の分野、いわゆる交響詩やオペラにおいてはヴォルフは敗者でした。彼の交響詩<ペンテシレア>は忘れ去られていますが、これはヴォルフにとって幸いとも言えます。オペラ<殿様大名>はもともとヴィーンの宮廷で初演される予定で、その公示を1897年に行った宮廷楽長、ヨーロッパで最高の権威を持つその人こそがかのグスターフ・マーラーでした。

しかしその初演はお蔵入りになりました。ヴォルフは狂気の発作に襲われ始め、彼自身を宮廷楽長として扱い、マーラーの解雇を宣言したのです。1897年9月20日、ヴォルフは精神科の病院に搬送されました。(当時は気違い病院と言われていましたが。)1903年のヴォルフの死後1年経った1904年になって、マーラーは<殿様大名>をヴィーン初演しますが不成功に終わりました。アルマ・マーラーはこう書き残しています。<可愛い歌曲の連なっただけでは、やはり劇性の高い作品にはなり得ません>と。
ユダヤ人排斥論者であったヴォルフにとって、若き日からの友人でありユダヤ人であるマーラーの目覚しい活躍と成功ぶりは彼の気を滅入らせるに十分であったことでしょう。それはすでに16歳、17歳当時の下宿時代から如実でした。マーラーはフーゴー・ヴォルフの破滅の道を最も身近に体験していました。アルマ・マーラーのグスターフ・マーラーへの回想録には、どういった経路でヴォルフが梅毒に感染し、その進行性の麻痺が広がっていったかが記されています。(シューベルト、シューマン、ニーチェ皆梅毒で死亡し、その内シューマンとニーチェはヴォルフ同様狂気のなかで死んでいったことを思い起こして下さい。)

(この具体的な内容についてはセミナー中にいつかふれたいと思います。当時の芸術家の暮らしぶりを垣間見るには、すばらしい証拠物件といえるでしょう。)

当時のヴィーンではユダヤ人排斥論がかなり浸透していました。その結果については無論みなさんご存知でしょう。ヴィーンには若き日のアドルフ・ヒトラーが居り、その汎ゲルマン主義に基づく彼の空想に耽っていましたし、それは後世のユダヤ人殺戮をすでに助長するものでした。フーゴー・ヴォルフは自身反セム派でありながらユダヤ人の裕福な友人のところに転がり込んで三食昼寝つきで作曲するのに矛盾を感じていなかったようです。ブルックナーの生徒であるフリードリヒ・エックシュタインなどはヴォルフの麻痺がひどかった時代まで、親身になって世話をしてやったようです。

フーゴー・ヴォルフは熱狂的な新ドイツ派の支持者であり、その台頭はフランツ・リストとリヒャルト・ヴァーグナーでした。彼の新聞評では徒党を組まず、歯に衣着せぬ辛辣な物言いで知られていました。名前にひっかけてヴィーンでは<野生のオオカミ>という渾名があったほどです。ヨハネス・ブラームスはヴォルフがいかにブラームス自身を扱き下ろしているのかを楽しむためだけに<サロン新聞>を購読していたと言っています。ヴォルフはリストの交響詩中たった1度のシンバル音に、ブラームスの全交響曲をひっくるめた以上の感情と精神を聴き取るとさえ言っています。歴史はしかし判決を下しました・・・リストの交響詩など忘却のかなたではありませんか。

今年の夏期講習会のテーマ、ヴォルフのリートに戻ってくるために、ここでヴォルフとブラームスの最初の邂逅について触れておきたいと思います。ヴォルフが当時ヴィーンの第一人者であったブラームスのもとを訪ね、初期の歌曲をいくつか提示しました。ブラームスは,<なかなかいいじゃないか、お若いの>と顰め面でいったとされていますが、すぐに作曲の技巧上の弱みを突き、当時名の通ったグスターフ・ノッテボームのところへ対位法のレッスンを受けに行くよう薦めたのでした。
この瞬間から<野生のオオカミ>はアンチ・ブラームス派となるのです。家族書簡のなかで、ヴォルフがいかに猛り狂っていたか読むことができます。ヴォルフはブラームスを北ドイツのこだわり爺いと呼んでいるほどです。この時からいわゆる学術的な音楽、バッハやモーツァルト、無論ブラームスも含めたそれらをヴォルフは軽蔑し始めますが、これを精神分析医は特異アレルギー体質と呼んでいます。

ここから講演の第2部に移りまして、19世紀に措ける歌曲の歴史と美学についてお話したいと思います。それらはフーゴー・ヴォルフの特別な位置づけを浮き彫りにしてくれるからです。こういった根本的考慮から勿論ゲーテを避けて通る訳にはいきません。彼こそは今日に至るまでドイツ語圏の冠たる詩人であり、ヴォルフもまた50曲以上ものゲーテの詩に即した歌曲を残しているからです。

ゲーテこそが歌曲という分野を高い位置にまで押し上げた第一人者でしょう。彼の考えでは、テキストがより重要な位置を占めるべきであり、音楽はそれに仕える役割であると確信していました。ゲーテはテキストと音楽の関係に付いて次のように
位置づけています。
— 感情・感覚と表現の一致
— 声楽の独立性、ただし例外的に伴奏に依存するにとどめる
— わかり易さ及び<高貴なる簡素さ >、歌い易さ
— 韻律が正しく歌に取り込まれていること
— 基本的に有節歌曲構成であり、左右対称、定期的な構築がテキストとも合致していること

ゲーテが数多くのベートーフェンとシューベルトの歌曲を解せなかったのも無理はないというわけです。この2人はテキストと音楽の同等化を目指していたのですから。 ベートーフェンとシューベルトの音楽はテキストを再現するのに努めています。
声楽のテキストとそれと同等の器楽に依る声部は形而上の全容のために存在する同等の権利を持った2つの軸なのです。ヴォルフまではこの考え方全盛でした。

我々は今日、ドイツ語のピアノ歌曲を3または4つの理想系に分けています。1つは有節歌曲、2つめは変奏有節歌曲、3つめは通作歌曲、ここまではお馴染みのものですが、テキストに即した作曲としてリートとは異なるゲザンクという形式が台頭してきます。ゲザンクとは基本的に通しで作曲され、しかしそのテキストはもはやリートのように明確な構造ではありません。押韻は自由になり、左右対称な有節形式ではないのです。ヴォルフにはしかも、リートに適した性格を保っているテキストを敢えてゲザンクに用いる傾向までSるのです。

特に通作歌曲およびゲザンクには他の全ての声楽曲の要素が盛り込まれることとなります。叙唱からアリオーゾ、劇中の場面的なもの、カンタータのような頌歌、賛歌、教会唱歌、果ては行進曲まで・・・・

フェリックスとファニー・メンデルスゾーンもまたベートーフェンとシューベルトによるテキストと音楽の同等化を継承しています。シューベルトと2人のメンデルスゾーンについて特に目立つのは、後々歌曲作曲家の前提条件となる文学的素養の高さであり、古典のみならず現代の叙情詩全般に精通していることでしょう。フーゴー・ヴォルフもまた卓越した文学的教養を持っていました。

シューマンはここで一歩先んじた立場を取っています。彼にとってはシュレーゲル、ティーク、ヴァッケンローダー、ホフマンらロマン派の音楽美学は極普通の最低必需的素養でした。ドイツのロマン主義者にとって、(フランス、イギリスの浪慢主義者にはあてはまりません。)音楽は最高峰の芸術でした。殊に器楽曲について再興され、新しく絶対音楽という捉えかたがされていきます。音楽そのものに意義および価値がおかれ、教会や社会的機能から解放されたのです。すなわち崇高なる原則の通り、絶対的に自由になったというわけです。

絶対音楽とはテキストから、その全般的内容からも解放されようと努力するのです。
すべてのテキストには現世の重みともいえる実存性があり、あくまで音楽のみがテキストの及ばぬところまで感情や感性を表現できるというわけです。
シューマンの歌曲については、それまで音楽史上一切見られなかった意味がピアノパートに見て取れます。すなわちシューベルトのように音楽がテキストを表現するのと同様、本来名指すことのできない音楽そのものが器楽声部によって表現されているわけです。(歌手の方達はお聴きになりたくないでしょうが、音楽史上の事実は曲げられません。)殊にシューマンの場合、後奏に顕著に聴き取ることができます。その後奏はただの<後奏>ではなく、まさしく歌であり、さらなる節のようにも響きます。むろん声楽部なしではありますが、まさにシューマンの子供の情景のように、<と、詩人は語りましたとさ>という風に聞こえませんか?

この<絶対音楽>というロマン主義的考え方はドイツ・オーストリア範疇の後進の作曲家によろこんで迎えられることになります。ブラームスからヴォルフ、マーラー、シュトラウスからシェーンベルク一派、更にヘンツェやライマンに至るまで。
ヴォルフに対し音楽学者ハンス・エプシュタインは新たに<ピアノ歌曲>という範疇を提案しました。ヴォルフの歌曲にはピアノパートの自立性が確立し、声楽部なしでも一個の音楽として成立するという意味合いがあったのでしょう。私自身はこの命題は問題ありと思えますし、ヴォルフの創造にヴァーグナーの果たした役割が多大であることに同意せざるを得ません。

形式上の混沌原則はピアノ歌曲のなかに交響的要素までも織り込んでしまいました。
ヴォルフ、マーラー、シュトラウスにおいては再現するのも困難なほどです。歌曲のオーケストラ版とは、まさに鶏が先か卵が先かというほどで、そのどちらにも例は数多くあります。

ヴァーグナーもまたヴェーゼンドンク歌曲こそあるものの、歌曲作曲家として重要とはいえません。しかし楽劇においてテキストと音楽の関係に1851年1852年以降目覚しい変化が起こります。彼が亡命先スイスで発刊した論文雑誌<オペラと演劇>のなかでは後にヴァーグナーがニーベルンゲンの指輪やトリスタンとイゾルデで実現させた全てがすでに提起されています。

交響的思考の特別な意味と楽劇中の器楽の意義とがすでに定義されているわけですが、ヴァーグナーはそれをもってしてもあくまでロマン主義の美学社会に位置しています。この美学はのちに哲学者ショーペンハウアーの影響により変化していきます。ショーペンハウアーの論文<渇望と表象としての世界観>のなかで、音楽は世界観のいき写しの顕れであり、そのため音楽はすべての芸術のなかでも最も崇高だということになっています。

しかし他の側面から見ると、<オペラと楽劇>に依り、次第にヴァーグナー自身がそれまで守ってきた原則から遠ざかってゆくこととなります。つまり均整の取れた韻律それも定型のある押韻をふくむ作曲から・・・(ここには叙唱は含まれません。)

これまでの作曲形態とは非常に明確なものでした。左右対称に構築されたテキストは音楽てき左右対称とも合致しており、前置章、後置章を含む楽章制形式であり、細分化されたバロック形式であったうえに、なによりもテキスト上での押韻はカデンツ構成に即していました。

基本的にヴァーグナーはこの伝統を<ローエングリン>までは守っていました。ここで、いわゆる<我慢ならない>状態に陥り、このような<作曲法をめぐる堂々巡り>を徹底的に嘲笑うことにしたのです。反してヴァーグナーはここで新しく<音楽的散文>を打ち出し、音楽こそが交響的論証を可能にし、既成の作曲概念に頼ることなく一貫した姿勢を取ることが出来ると考えました。つまりメロディーはいまや終止のない形態となったのです。

ここで歌手の方々があまり聞きたくない点が生じて来ます。音楽の本質はあくまでオーケストラの紡ぎ出すほうにあり、歌は朗唱風にテキストを補う形になり、感情的劇的部分のみ担当することになるのです。ごくたまにライトモティーフ(示導動機)による脚色部分として取り上げられることはありますが。更に明朗な簡潔さというものも、<ジークフリートの鍛冶の歌>程度にしか表出しなくなります。

ここらでヴァーグナーから離れることにしましょう。しかし後進の歌曲作曲家にとって重大な問題が明らかになった訳です。どうなるのでしょうか?
彼らは叙情詩に作曲することを結果論として続けます。定型、押韻のある詩を今まで通り取り上げて行きます。しかし、ヴァーグナーの判決を受け入れるべきか、歌はテキストの朗詠に徹するべきか、これはすなわちヴォルフの取った立場でした。
それともシューマンの末裔として古い立場を守るのか・・・・

この2つの意見の中間に、ヴォルフ、マーラー、シュトラウスの歌曲は位置します。
ヴォルフはいかにもヴァーグナーファンではありましたが、メーリケ歌曲集中の、<まどろんでいると>や<夜明けに>はその影響が如実に顕れています。そのヴァーグナー的な曲にたいし、ブラームスはこういっています。<音楽に対して誠実でない限り、詩の朗読というものはなんと簡単なのか。それ以外では、ヴォルフとは才能ある叡智に満ちた男なのに>と。
ここで<夜明けに>を聴くことにしましょう。注意してピアノパートと朗誦に耳を澄ませて下さい。歌手の方々には耳が痛いでしょうが、この<ピアノ歌曲>に、本当に歌が必要と思えますか?

ヴォルフは幸いにも独断論者ではありませんでしたのでメーリケ歌曲集にはシューマンの影響が色濃いものもあるのです。たとえば<夜更けて>では、非常に美しい左右対称な歌のメロディーが聞き取れます。この曲についてはのちのセミナーにて掘り下げていきたいと思います。

ヨハネス・ブラームスは完璧な文学作品としてではなく、音楽に必要な余地を残したテキストを必要としていました。シューベルトのゲーテ作品についてこうも言っています。<シューベルトのズライカの最終歌、この胸の高まりは何?の部分のみが、ゲーテの詩が音楽によって高められているといえよう。他のゲーテ作品は文学として完結しており、音楽のさし挟まる余地はない。>と。この一言で、ブラームスはマーラーにとっての理想像となりました。ブラームスによって作曲された歌曲はいずれも音楽に対して十分な余地が残されており、(このことでもブラームスがマーラーよりもロマン主義だと評されるに値するのですが)そこでは言葉というものが表現できる限界を、音楽が超越していることが証明されるのです。

ブラームスはクララ・シューマンへの手紙の中でこうも書いています。<歌曲は今間違った方向に進んでいます。すなわち理想形である民謡形式の及ばぬところへ>と。ヴァーグナーへの傾倒にも関わらず、マーラーとシュトラウスとはこの民謡的成分を、ヴァーグナーの偉業を損なうことなくみずからの歌曲に取り入れています。
すなわち、作曲手段・媒体としてテキストつまり言葉にのみ民謡性を取り入れたのです。

ここでマーラーの子供の不思議な角笛から、<魚に説教するパドゥアの聖アントニウス>を聴くことにしましょう。根底に流れええているのは、レントラー舞曲であり、まさしく聖なる世界観を皮肉っているわけです。聖人の説教など意味なし、世界は混沌のまま。マーラーはここで風刺的な意図を持って通俗主義から前衛主義的にいたる弓を放っているのです。しかもここでは音楽史上最初の二重調性が聴き取れます。

ヴォルフの場合もまた特にスペイン歌曲集とイタリア歌曲集において、ヴァーグナーからの離脱が見て取れます。恐らく哲学者ニーチェからの影響でしょうが、彼はこの頃強烈なヴァーグナーファンから、痛烈なヴァーグナー批評家へと転身したところで、ビゼーのカルメンを、<ヴァーグナーへの解毒剤>とまで評しています。
なおスペイン歌曲集はとりもなおさず当時のスペインスタイルの流行に乗ったものです。ここで<私の巻毛の蔭で>を聴くことにしましょう。

マーラー、ヴォルフ、シュトラウスは自身を、丁度フランスのデビュッシー同様、現代音楽派だと見做していました。流行すたりには敏感で、しかもあらゆる分野における進歩革新に肯定的でした。たとえば文芸作品、哲学、絵画、精神分析や工学分野にいたるまで・・・なかでももっとも押していたのはシュトラウスでした。<バラの騎士>の懐古趣味に惑わされてはいけません!

ヴォルフはシュトラウスにくらべ控えめでした。特にシュトラウスの自然信奉主義は、精神実存主義や社会的拘束とあいまって、なおのことひどかったようです。
ヴォルフは手紙にこう書いています。<この見せかけの非和声進行はお話にならない。これがドイツではもてはやされるのだから。私はいっそ臆病者として隠遁しよう、成り金に成り下がるくらいなら。>

ここでシュトラウスのベルリン当時のあまり有名でない作品で、デーメルの詩による<労働者>を聴くことにしましょう。この歌曲は挑発的ともいえるもので、なぜならこの少し前に皇帝ヴィルヘルム二世が社会拘束された自然礼賛とゼセッション分離主義とを<垂れ流しの芸術>と批判したことに由来しています。

ヴォルフの和声は色彩豊か、独創的でまぎれもなく<現代的>と言えるでしょう。
彼自身はそれを否定し、<私の不協和音がどんなに和声学にのっとっているか>と語っています。ヴォルフが<対位法>でなく、<和声学>といているのは興味深い事実で、彼の不協和音はまさに音響学ともいえ、対位法とは離れた立場にいることが証明されます。このことはある意味早期の印象派とも考えられ、またある意味では作曲法の未熟な部分の露呈とも受け取れます。(15年ほど昔に私が出した論文で<音楽創案75巻、フーゴー・ヴォルフは半可通だった、ヴォルフ批判の判定基準>というものもあります。)

梅毒の症状はヴォルフを躁鬱の激しい移り変わりの谷間に突き落としました。むろん、躁状態の時期のみ作曲が可能だったのですが、そのような時には1日に何曲もの歌曲が誕生しました。しかし、いわゆる大曲の作曲、交響曲やオペラなどの作曲は、その短い間隔での躁鬱の交代により、断念せざるを得なかったのです。

しかし、ヴォルフの歌曲や歌曲集を1つの独立した分野として見做すのになんら躊躇うことがありましょうか?私個人にとって、メーリケ歌曲集こそがヴォルフの集大成のように思えます。そしてなによりメーリケ歌曲集のしめくくり、<分かれ>をこの講演のしめくくりにつかわない手はありません。作曲者自身が批評家に訪なわれ、その別れの際に階段上にきこえる足音、そしてピアノ部分の雷に似た大音声、そして天才的な場面転換、(こんなに早く階段を駆け下りる奴がいるなんて!)
しかもここでは皮肉なヴィーン風のワルツがきこえ、いかにも軽薄で毒のない、しかし爆発力を内に秘めたまま、終焉を迎えます。それではここで<別れ>を告げることにいたしましょう。